Re: 感動しました! 素晴らしい報告です!

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10829. Re: 感動しました! 素晴らしい報告です!

お名前: ako
投稿日: 2008/5/11(02:25)

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泊義さん、こんにちは。akoです。
すっばらしい報告読ませていただいて、いま、コーフンのカンドー状態です。
泊義さんの格調高い報告の雰囲気を落としそうで、どうしよう〜、と思いながらですが、
とにかく感動の第一報をお伝えさせて下さい!

〉先日、『英文版 坊っちゃん - Botchan』(訳:J. Cohn)を読み、累計語数が
〉300万語を突破しました。200万語から一年以上、多読開始から三年以上経って
〉います。

300万語、そして3年経過と、「3」で迎えた縁起の良い多読報告、
おめでとうございます。
報告を拝見するのは久しぶりですが、急ぐことなく着実に読まれておられることがよく伝わってくる報告、気持ちよく読ませていただきました。

〉( 『英文版 坊っちゃん』の感想は、ブログに書きました。お読みいただけ
〉れば幸いです。

拝見しましたなもし〜。
なんとなんと、見逃せない本を読んでおられるじゃあ、ありませんか〜。
横山光輝〜! 山内センセ〜!!
(違うところで勝手にコーフン、失礼したなもし〜(笑))

引用された英文を読んだ英語母語の人が、
「namoshi」をどう感じるか、面白いと思うのかどうか、など、
ぜひ話を聞いてみたいものですな、もし〜。(しつこいですな)

今はネット利用の仕方次第で会ったことのない外国の人と話ができるそうなので(←未経験)
そういう話題をはっきりと持っている人同士なら、とても良い交友ができそうです。

〉もっとも途中、英語ゲーム(北米版ゲーム)をプレイしていた時期があり、
〉英語ゲームは語数カウントに含めなかった、という事情もあります。含めて
〉いれば、プレイした英語ゲームの「語数」は数十万語はあったでしょうから、
〉もっと早く300万語を達成していたはずです。

ブログでご紹介の応援団ゲーム、面白そう。ぜひやってみたいです!
わたし、任天堂オタクの甥の人生ゲームに負け続けでしたんで、
(なんたって、ガキは裏ワザ卑怯モードで戦ってきますの)
リベンジを狙ってます、akoオバ、黒い動機です。
ガキにゃ負けられんけんね!
泊義さんの英語ゲーム相談会(?)は参加必須。次はいつ?(笑)

〉英語ゲームをなぜ語数に含めなかったかと言うと、語数カウントをどうしたら
〉よいか迷ったことが一つあります。そしてもう一つは、300万語は100万語以上
〉に私にとってはエポックになると考えていたので、本だけの語数カウントに
〉してみた次第です。

なるほど。他の方の投稿でも時々見かけます。
たとえば絵本はカウントに入れてない、とか、ネットで読んだぶんは入れてない、とか、ありますね。
カウントに関する自己基準を、各自持ってるのは、いいことだと思います。

カウントを残すのは、後になって、いつ頃の自分はどれくらいの英語が読めていたかな〜、とか、そのころは何語読んでいたかな〜、とか、振り返った時に、自分自身が積み上げてきた歴史が自然にできていて、達成感や充実感につながるのが何よりですよね。
わたしも過去の自分のカウント手帳を何度も見てますが、
手書きの足し算の跡などが実に楽しい。(アナログ人間でー)

でも、累計総語数だけじゃなく、こうした自己基準で、カウントしたいカテゴリーを決めてあることは、自分の多読の歴史の個性が強くなって、ますます印象に残り、達成感にも独自性が持てて、良い意味での自信につながるのではないかと思います。
(もはやカウントしてない者が何を言うか、、、ですなもし)

〉今回の300万語通過報告では、私の多読エポックと位置づけた「300万語通過
〉本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ意図・理由について書いて
〉みたいと思います。そして、これは最近多読について私が考えてきたことにも
〉つながります(だからこそ、英訳『坊っちゃん』を「300万語通過本」に
〉選んだのですけど)。

そうです! 自分のエポック! 
自分のエポックを自分で設定するというのも、自立したタドキストならでは、ですね。
さすがに、100万語「超」の広場ならではの体験報告だ、と瞠目しました。

〉まず、SSSウェブサイトでも紹介されているように、『現代読書法』(1906年)
〉において漱石が「多読」を推奨していることがあります。多読の原点である
〉漱石への敬意、というのが理由その一。これは、単純ですね。

ここ(↓)ですね。
[url:http://www.seg.co.jp/sss/learning/index.html]
私も、初めてSSSのサイトを訪れた時、これらの案内ページは丁寧に読みました。
単なる英語学習の紹介とは違う魅力を感じながら。

〉理由その二からは、私が多読に感じている魅力にもつながってゆきます。
〉こんなことを思っている人が他にどのくらいいるのか、またどのくらいの人が
〉賛同してくださるのか、全く不明です。

(挙手)ハイハイハイハイ!ここにいます〜〜〜!! 
もう下のほうも先に読んでます、同じこと思ってます、
全部賛同です〜!(←なんと安易なことで、汗、汗(笑))

〉しかし、せっかくですので思い切って書いてみます。

やった〜、書いて書いて〜〜。
(泊義さんの格調を、落としてばかりだなもし)

〉漱石は、明治の英文学者であり、西欧文化と日本文化の相剋に苦悩し続けた人
〉でもあります。「現代日本の開化」で、《現代日本の開化は皮相上滑りの開化
〉である》と述べました。
〉この問題は、今なお継続中なのではないか、という見解があります。

皮相上滑りのまま明治から140年も経ってしまいましたが〜(泣)、
漱石せんせーーぃ(笑)

〉《われわれの悩みの大半をすでに明治人は味わっている。つまりわれわれは
〉ほとんど(その本質的な部分では少しも)新しくない。それを知らないのは
〉ただ不勉強のゆえである。》関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』(双葉文庫)
〉この関川夏央さんの文章に、私は同意する者です。

聖徳太子の時代からの日本の長い歴史を思えば(いや、卑弥呼からか? いや、三内丸山もある(笑))
たかだか150年程度では、民族集団の精神構造の変化が深まるには足りないのかもしれないですね。
古代の日本列島が外来文化受け入れに積極的だった期間を経て源氏物語が生まれるまでだって、数百年は経ってますしね。
(そういう問題なのかどうかはわかりませんが…)

日本人も、英語に近いところにおられる人ほど、その苦悩や葛藤、相剋は深いのではないか、と思います。(翻訳や通訳を仕事にしている友人の話を聞いての、わたしの推測です)

〉ではこれが、どう多読につながるか?ということですが、私の考えはこう
〉です。
〉英語多読は、要らぬ英語コンプレックスや英語への過剰な恐れを弛緩し、
〉健全な日-英米相互文化理解・異国間コミュニケーションの一助になり得る
〉のかもしれない…。

大賛成ですー!
「要らぬコンプレックス」というのが実に実にリアルで〜(←自分のことだから)
「要らぬコンプレックス」ということで思い出しましたが、以前、NY在住の日本人が書いたものに、類似の指摘がありました。世界共通言語が英語化することによる良し悪しや、英語を受け入れる際の、英語以外を母語とする各国、各民族集団の違いとか。書名は忘れてしまいました。。。

つまりは、明治から今、140年、黒船来航からなら150年超! 
日本人はどのように開国してきたのか、ということですよね。
もちろんそれを物心両面から考えると、モノについては世界トップレベルの生活を享受する日本ですけど(何と言っても、生まれた時からウォシュレットとケータイがある)、
教育や政治、宗教についてはどうなんでしょう。
150年後の今を、漱石氏や鴎外氏がどう言うか、聞いてみたいものです。

〉これは、酒井先生が『快読100万語!』(ちくま学芸文庫)p.242-243あたりで
〉展開された、無意味なカタカナ語・(和製?)英語表記の氾濫や「漢語の横暴」
〉への批判にも通じる話かと思います。

はい。『快読』は、わたしもかなり興奮して読みました。
多くのタドキストの多読のきっかけ本ですね。

〉鈴木孝夫さんや高島俊男さんの著作を愛読してきた私は、
〉『快読100万語!』のこのくだりを読んだ時、喝采を叫びました。

泊義さんは和書の趣味もいいですね。惚れぼれ…(迷惑か…)
え〜、脱線失礼しました。背筋を伸ばしなおしまして。。。

おそらく同じことを多くの人が、憂慮しているんだと思います。
でも、なかなか英語教育の現場が変わらない。特に中学高校の教育現場は、大学受験に焦点を合わせて組み立てられていると聞いています。
その意味でも、現職の大学の先生の立場から書かれた酒井先生の『快読100万語!』は画期的でした。

〉個人的感覚に過ぎませんが、私の場合は多読を始める前より、英語を恐れる
〉程度が多少なりとも小さくなってきたように感じてはいます(あくまで相対
〉的比較ですけど)。これは多読によって英語力が上がり自信がついたという
〉より、多読開始前から比べれば英語が身近になったから、ということかも
〉しれません。

非常に同意です。私の場合、証拠もありますの〜。(見なくていいです…。長いから(笑))
10万語[url:http://www.seg.co.jp/cgi-bin/kb7.cgi?b=sss-f-b&c=e&id=7191]
20万語[url:http://www.seg.co.jp/cgi-bin/kb7.cgi?b=sss&c=e&id=20102]

主旨を一言に凝縮するなら、「幸福感」…という、英語と結びついたことがなかった感覚を、多読で初めて得た、ということでした。
当時、その部分について多くのご返答いただいたのも、泊義さんが今回提示された問題を、多くの人が同様に感じているからであったと思っています。

そして今日は改めて、わたしたちが実践している多読というのは、こういった、とても広い意味での効果(「効果」という即物的な言葉も使いたくないくらい、得難いもの)があるものだ、ということを再認識させていただきました。
泊義さんが、今回の投稿をしてくださったおかげです。

しかも多読によって、思いきり即物的な(?)英語成績アーップ、点数アーップ(笑)もやり方次第で期待できると思ってますので、
多読に多聴〜、一石二鳥〜、瀬戸内寂聴〜。失礼しました…。(瀬戸内先生もゴメンナサイ)

〉理由その二をまとめますと、漱石以来の彼我文化の相剋を解いてゆく一助に
〉多読はなり得るかもしれない、ということです。そして、その相剋に苦悩した
〉近代人漱石への共感、というわけです。

泊義さんが、そういう視点を内に秘めて英語と接してこられたこと、
先人への素直な敬意も含め、実に気持ちのいい報告です。惚れぼれ…。(←だから、迷惑)
泊義さんは英語有段者であることそのものを自尊心の支えにするような英語有段者ではない英語有段者になられるものと確信しております。

〉「300万語通過本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由その三。
〉それは、英語と英文学を学ぶ意義についてです。
〉かつては欧米列強に追いつけ・追い越せの時代であり、英語を学ぶ理由はまず
〉明らかでした。今も、仕事上必要に迫られるなら、英語を学ぶ理由は明白で
〉しょう。
〉では英文学は、と言うと——。

この話、学生時代の友人が議論してたことがあります。酔って。(笑)
この小さい日本という国の人間同士が、英語という大きな存在をめぐって、深刻に摩擦を起こす様子が恐ろしかったですが、それほどに、英語というものに魅了されているんだな〜、と思ったものでした。

〉《一体かれらの国の文学の伝統においては、政治と文学とがそんなに分かれて
〉いたものではなかった》「英文学と政治」『福原麟太郎著作集 11』(研究社)
〉英文学者・福原麟太郎は、1939年にこのように書いています。すなわち、
〉かつて英文学は、イギリス政治理解のためのインテリジェンスだったという
〉わけです。まさに実学であったのですね。

まさに第二次大戦の時ですね。
少し前は日英同盟の時代もあったというのに…。日本はどこで間違ったのか。。。
まさにこの「インテリジェンス」というカタカナ日本語の真意こそ、今、グローバリゼーションやら何やらにこじ開けられつつある日本の第二の開国にもっとも必要(あるいは、欠けている)なもののようで。
カタカタ日本語の「インテリ」のほうはすっかり減価償却してるようですが(笑)。
寅さんも映画で言ってましたしね。「するってーと、さしずめアンタ、インテリだね?」(笑)

〉しかし、別に政治家と渡り合うわけでもなく21世紀を普通に生きる我々には、
〉この用途は不要でしょう。多読でも、読むテキストは自分の興味ある分野・
〉得意な分野・仕事で必要な分野、などがお薦めとされています。
〉まったくそれで構わない、むしろそれが健全・適切、と私も思っております。

これはもう、完全に同意の同意!
だってね、幼児向け(小学生までさえ行かない(笑))の英語絵本は、
英語学習だけじゃなくて、幼児返りの楽しさあり、道徳学習にもなり、良いことづくめ。
いーにーみーにー まいみーもー!  …つ、つい、勢いで、、、失礼しました〜。

〉ただ、それでも敢えて今、英文学を学ぶ意義があるとすれば、次のようなこと
〉かと思うのです。
〉《現実はどこまでも強引に執拗に続いてゆく。決してピリオッドにならない。
〉理論や抽象的思考の一筋縄ではしばれない。それは漱石が『道草』の最後の行
〉で独語しているところであるが、あの悟りが英国人の悟りである。

参考までに『道草』から引用しますね。
『世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起ったことはいつまでも続くのさ。ただいろいろな形に変るからひとにも自分にもわからなくなるだけのことさ』の下りでしょうか。
今風にいえば「終わりなき日常」か、あるいは「勝利も敗北もないまま孤独なレースは続いてく〜」(ミスチルの好きな歌(笑))か。いずれにせよヴィクトリア朝かな、と思ったり。

〉彼らは現実家であるゆえに、よけい多くの現実の重圧を感じる。そのうるささと重みに
〉堪え兼ねて、それから逃げて一息つく方法を考える。そして、何とかして古い
〉過去の現実からの影響を振り捨てて、新しい現実と新しく取っ組みたい、それ
〉が現実家の意欲でもある。彼らはそこで転身の術を次第に覚えてきた。それが
〉ヒウマーであった。》「英国的笑い」『福原麟太郎著作集 11』(研究社)
〉「ヒウマー」は、ユーモアのことですね。

星飛雄馬じゃなく…(アホakoさんは放置の刑ということで…)

ユーモアは、日本語カタカナが「ユ」になってしまったのでわからなくなってしまいましたが、本来、ヒューマン、ヒューマニズムとも関係あるというではないですか。
「ヒウマー」でも「ヒューマー」でもいいから、カタカナにする時、もうちょっと考えて欲しいわねー。誰がそういうカタカナ訳語の表記を決めたのかしら。そういうの決めたところに文句いいたい。ナントカ協会とか評議会とかかしら。権力の臭いがする(笑)。

〉英文学は、大人の文学・叡智の文学
〉だと福原麟太郎は言います。ゼロ成長時代、格差社会、と明るくない問題が
〉山積みな昨今の日本ですが、そんな厳しい現実と向き合ってゆくうえで、
〉英文学が教える智恵は今後有用かもしれない、と思ったのが、「300万語通過
〉本」に英文学者・夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由その三です。

単なる古典回帰としてでなく、今の時代とリンクして、読むべきものとして読まれている。この視点は、漱石の価値はもちろんですが、泊義さんの着眼点の素晴らしさと思います。このような視点で多読されている方がおられ、また、そういう方が、我が多読の友であられることを誇りに思います。
(これでさっきの放置の刑を許してもらおうという…)

〉もっとも、英文学と言っても多様でしょうし、日本文学にも例えば落語などは
〉「ヒウマー」たっぷりに現実と渡り合う智恵が詰まっているでしょう。あるい
〉は、福原麟太郎のイギリス伝統主義への憧憬は、今となっては差し引いてみる
〉べきなのかもしれません。また、英文学を学ぶにしても日本語訳で十分、と
〉いう正論も当然ありえます。

確かに。
英語以外が原著の作品に、邦訳はあるが、英語訳はない、というものもあることを考えますと、日本の翻訳文化というのは相当な水準なんだと思います。
日本語ができれば、十分に世界中の優れた書物に接することができる、という意見があることも知っています。英米発のものだけしか接したことがないというのは、世界を見る視点がアングロサクソンに偏ってしまいますし、世界は英米だけで成り立ってるわけじゃないんだ〜〜、…とは思っていても、ほら、高度な英語が読めない人が言っても説得力ないから普段は言わないだけで。(笑)

泊義さんが、英国一辺倒を礼賛しておられるわけではない、ということは、文面から十分に伝わってきます。その上でのこととして、英語におけるユーモアの真髄などは、多くの英文学にじかに英語で接してこそわかるものでしょうし、もし、日本の落語における「滑稽」や「諧謔」といったものが、英国のユーモアとどう違うのかなど知りたければ、やはり、英文学を英語で読み、そこからダイレクトに概念をつかめることには大きな意義があると思います。
その域に今、まさに届かんとしている泊義さんに、最大の賛辞を送りたい。

〉というわけで、理由その三は、かなりこじつけっぽい面があることは否めま
〉せん(笑)。

ふふふ。そういうコジツケは楽しみのうちね。

〉とまれ、「300万語通過本」に夏目漱石『坊っちゃん』の英訳を選んだ理由を
〉まとめますと——、
〉1.多読の原点である漱石への敬意
〉2.日本の近代化に関わる我々と同じ問題に悩んだであろう漱石への共感
〉3.現実を生きる智恵が詰まっているとされる英文学を学んだ先達漱石への追慕
〉となります。
〉以上、300万語通過本に英訳『坊っちゃん』を選んだ理由でした。

(1)〜(3)まで、ずらーり漱石宛て敬意尽くしで一貫してますね。

わたしは昔、漱石、漱石、と、猫も杓子も状態で、なんだか抵抗感じて避けてたことがありました。
でも、ある短編を知って以後、この大作家の本気のツボを見たような気がして以来、漱石といったらラファエル前派、というまでに印象が変貌したという体験があります。
なので、夏目漱石へのストレートな賛辞を惜しまない泊義さんの報告に、
今のわたしは拍手を惜しみません。私にとっても実にいいタイミングで、本当に嬉しい報告でした。

〉なお、上記で多読に関して述べたことは私の個人的雑感であり、「多読はかく
〉あるべし論」ではまったくありません。また私は大学は理系ですし、英文学に
〉ついて全くのド素人の戯言でございました^^;)。

はーい! 泊義さんの戯言として聞いておきますからご心配なく。
言論の自由というのは、こういうことを戯言として自由に発言できることだと思ってますから。

〉それでは皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

大げさな題を書いてしまってすみません。
泊義さんのことですから、さぞや恐縮されていることと思いますが、
本当に素晴らしい報告です。ありがとうございました。


▲返答元

▼返答


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