茶々入れてすみません

[掲示板: めざせ100万語! -- 最新メッセージID: 25675 // 時刻: 2024/6/2(23:10)]

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11255. 茶々入れてすみません

お名前: 杏樹
投稿日: 2003/2/19(22:52)

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こんにちは。

〉世界の宗教の中では一神教というのはきわめて例外的なもので、八百万の神とか、アニミズムとかいうほうがずっと普通なんだと思います。

そうでもありませんよ。イスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒を合わせると、世界の人口のかなりの部分を占めるはずです。

〉英語(欧米語)には主語が必須であるというのは、一神教と深くかかわっているのではないかと思うのですが、違いますでしょうか?
〉多神教であるローマのラテン語には主語は必須ではないですよね。
〉八百万の神の日本語では当然「日本語に主語はいらない」ということになるわけです(そんな題名の本が去年でたような)。

ラテン語も英語もインド・ヨーロッパ語族です。ラテン語に主語がないのは、動詞の活用を見れば主語が特定できるからです。人称によって動詞が変化するので、主語を特定しなくては動詞が使えません。主語は「ない」のではなく「省略されている」のです。スペイン語も同じ理由で主語を省略します。

〉日本人が根本的に英語が苦手なのは、発想が一神教的でないからということがあるのはないかと思っていますが、考え過ぎですかね?

ミもフタもないお答えになりますが、インド・ヨーロッパ語は理路整然とした体系を持つ言葉です。それに比べると日本語はあいまいな部分があります。それは日本語だけの特徴ではなく、アジアの言葉にはそういうものが多いような気がします。中国語やインドネシア語などもあいまいで、理屈よりも感覚で理解するようなところがあります。

ヨーロッパ人にとってもキリスト教はもともと外来宗教です。ケルト神話や北欧神話などキリスト教以前の神話伝説がありますし、そういった神話の神々を信仰してきたヨーロッパ人にキリスト教を広めるために、中世初期のヨーロッパでは土着の信仰や風習を取り入れながら布教が行われました。カトリックの聖人信仰など、私はほとんど多神教に近いと思います。


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11271. Re: 茶々入れてすみません

お名前: jun http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/
投稿日: 2003/2/20(00:21)

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杏樹さん どうもありがとうございます。

〉〉世界の宗教の中では一神教というのはきわめて例外的なもので、八百万の神とか、アニミズムとかいうほうがずっと普通なんだと思います。

〉そうでもありませんよ。イスラム教徒とキリスト教徒とユダヤ教徒を合わせると、世界の人口のかなりの部分を占めるはずです。

 そうですね。でもその3つの宗教はともに旧約聖書的世界観なしには成立しなかったという点で、大きくみれば一つの宗教なんで(乱暴かな(^^))、宗教の数としては一神教的なものは少ない、例外的といえるのではないでしょうか?←滅茶苦茶な議論ですね(^^)。

〉〉英語(欧米語)には主語が必須であるというのは、一神教と深くかかわっているのではないかと思うのですが、違いますでしょうか?
〉〉多神教であるローマのラテン語には主語は必須ではないですよね。
〉〉八百万の神の日本語では当然「日本語に主語はいらない」ということになるわけです(そんな題名の本が去年でたような)。

〉ラテン語も英語もインド・ヨーロッパ語族です。ラテン語に主語がないのは、動詞の活用を見れば主語が特定できるからです。人称によって動詞が変化するので、主語を特定しなくては動詞が使えません。主語は「ない」のではなく「省略されている」のです。スペイン語も同じ理由で主語を省略します。

昔一学期だけやったラテン語で、amo amamus なんたらというのをやったように思います。ただ省略できるというのと、省略できないというのでは決定的な違いがあるということはないでしょうか? ラテン語などではむしろ ego amo (すみません。ラテン語全然知らないので、I love のつもり)などというのは例外的いいかたで、amo というのが普通だとすると、主語をあらわす人称代名詞が言語上必須である言語とはかなり言語意識が違うということはないでしょうか。でもスペイン語では省略されるとするとわたしの言っていることは、どうも根拠がないですね(^^)。

〉〉日本人が根本的に英語が苦手なのは、発想が一神教的でないからということがあるのはないかと思っていますが、考え過ぎですかね?

〉ミもフタもないお答えになりますが、インド・ヨーロッパ語は理路整然とした体系を持つ言葉です。それに比べると日本語はあいまいな部分があります。それは日本語だけの特徴ではなく、アジアの言葉にはそういうものが多いような気がします。中国語やインドネシア語などもあいまいで、理屈よりも感覚で理解するようなところがあります。

 そこのところをぜひおききしたいのですが、日本語(あるいはアジアの言語)があいまいに見えるのはインド・ヨーロッパ語を基準に考えるからそう見えるのだということはないでしょうか? これまたいい加減なことを書きますが、学問的な文法体系が整備しているのはインド・ヨーロッパ語だけで、その文法体系から日本語をみるからあいまいに見えるのであって、日本語は日本語として明晰な言語である、ということはないでしょうか?(本当にいい加減なことを書いてすみません(^^))

〉ヨーロッパ人にとってもキリスト教はもともと外来宗教です。ケルト神話や北欧神話などキリスト教以前の神話伝説がありますし、そういった神話の神々を信仰してきたヨーロッパ人にキリスト教を広めるために、中世初期のヨーロッパでは土着の信仰や風習を取り入れながら布教が行われました。カトリックの聖人信仰など、私はほとんど多神教に近いと思います。

 橋本治の「宗教なんかこわくない!」で、部派仏教と大乗仏教の違いを説明して、大乗仏教の方にたくさん拝む対象があるのは布教の過程で現地の神々を吸収していったからだ、だから大乗仏教は多神教の要素があるといっているのと同じようなことでしょうか? もっとも橋本治はキリスト教は現地の神を滅ぼしたのでそれがオカルトになって祟るのだといっていますが。

 知りもしないことで、勝手なことを言ってすみません。

 片岡義男氏の「日本語の外へ」に書かれている、日本人のしゃべる英語には主語という意識がないという話や、金武さんの「日本語に主語はいらない」がとても面白かったので、なんとなく思いつきで書きました。どうもすみませんでした。


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11311. 日本語と英語の距離

お名前: 杏樹
投稿日: 2003/2/21(00:58)

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junさん、こんにちは。
お付き合いいただきありがとうございます。

〉昔一学期だけやったラテン語で、amo amamus なんたらというのをやったように思います。ただ省略できるというのと、省略できないというのでは決定的な違いがあるということはないでしょうか? ラテン語などではむしろ ego amo (すみません。ラテン語全然知らないので、I love のつもり)などというのは例外的いいかたで、amo というのが普通だとすると、主語をあらわす人称代名詞が言語上必須である言語とはかなり言語意識が違うということはないでしょうか。でもスペイン語では省略されるとするとわたしの言っていることは、どうも根拠がないですね(^^)。

ラテン語はamoと言えば一人称ですよね。二人称や三人称、複数になると変化しますよね。ということは、主語は省略したとしても、実際上の主語が何であるかを特定しなければ動詞が使えないわけです。日本語では主語がなければその場の状況や前後のつながりによって意味を判断することになります。しかしラテン語は動詞を見れば主語は一目瞭然です。一目瞭然なので「わかりきったことは省略する」のです。そこが日本語とラテン語の違いです。
ヨーロッパの言葉の多くは人称によって動詞が変化します。三人称単数現在にSをつけるだけの英語は例外です。フランス語やドイツ語は主語は省略しませんが、ヨーロッパの言葉の多くは動詞の活用が必須です。

〉 そこのところをぜひおききしたいのですが、日本語(あるいはアジアの言語)があいまいに見えるのはインド・ヨーロッパ語を基準に考えるからそう見えるのだということはないでしょうか? これまたいい加減なことを書きますが、学問的な文法体系が整備しているのはインド・ヨーロッパ語だけで、その文法体系から日本語をみるからあいまいに見えるのであって、日本語は日本語として明晰な言語である、ということはないでしょうか?(本当にいい加減なことを書いてすみません(^^))

インド・ヨーロッパ語が世界的に広く使われており、文法体系や言語同士の関係も研究が進んでいるのは確かです。そしてインド・ヨーロッパ語を基準にすると日本語があいまいに見えるという側面も確かにあります。
しかしやはりインド・ヨーロッパ語は理論的に構築された言葉であるのに対し、アジアの言葉は情緒的な面が多いように思います。例えば主語がない、ということについては主体がはっきりしないということになり、つまり上で述べたように前後の意味や状況を考えて意味を取る必要があるわけです。私はアジアの言葉をたくさん知っている訳ではありませんが、中国語を習い始めた時そういった感覚を持ちました。英語よりも「雰囲気」で解釈するような面が多いと思いました。また、インドネシア語をかじった時は言葉の構造や意味がヨーロッパ語のように明確ではなく、その場の雰囲気やニュアンスを重視するのでかえって習得するのが難しいように思いました。「接頭語」などというものがあって、どういう時に付けるのかというと、いくら説明を読んでもはっきりしません。使いながら感覚で覚えるしかないようでした。

日本人が外国語を習得するのが難しいのは、確かに学習法にも問題はあります。しかし日本語は世界でも孤立した言葉であるというのも原因ではないかと思います。インド・ヨーロッパ語は実にたくさんの言葉があり、その中でもラテン系やゲルマン系、スラブ系、ペルシア系など細かい分類があります。それらの相関関係は詳しく研究されています。その中の言葉同士では基本的な構造が似ている上、語彙も共通のものがありますから勉強しやすいはずです。

しかし日本語ははっきり同系統と言える言葉がありません。韓国語は構造がほとんど同じで単語を置きかえれば通用するぐらいだと言いますが、語彙が全く違うので同系統とは言えません。もし日本語と韓国語で同じような語彙があるならそれは昔中国から取り入れた漢語でしょう。
またトルコ語やモンゴル語も構造が似ています。しかし同系統と断言できるほど近くはありませんし、語彙も異なります。南インドのタミル語が日本語のルーツだという説もありますが、定説には至っていません。
ですから日本人は外国語を勉強しようとすると同系統の文法や語彙を見つけることができず苦労するのです。

「日本人は英語が苦手」というのは、単に学校で習った英語が使えないだけで、英語だけが特に難しい外国語というわけではないのです。100年以上前はフランス語が世界語の地位を占めていました。もしフランス語が世界語のままだったら、中学一年になったとたん不規則動詞や規則動詞の活用を丸暗記させられることになり、名詞が出てくるたびに男性名詞が女性名詞か覚えなくてはならず、もっと落ちこぼれが増えていたかもしれません。そうすると「日本人はフランス語が苦手」と言われていたでしょう。英語はヨーロッパ語の中では単純化されて入りやすい方だと思います。ただ、英語で困るのは発音でしょう。英語の発音は難しいですから。おまけにつづりと発音が一致しないのでつづりや読み方を覚えるのが大変。
ヨーロッパ語で発音が簡単なのはスペイン語とイタリア語です。母音が日本語と同じで五つしかありませんし、つづりの通り読めばいいんですから。ただRの巻き舌ができないとつらいです。

〉 橋本治の「宗教なんかこわくない!」で、部派仏教と大乗仏教の違いを説明して、大乗仏教の方にたくさん拝む対象があるのは布教の過程で現地の神々を吸収していったからだ、だから大乗仏教は多神教の要素があるといっているのと同じようなことでしょうか? もっとも橋本治はキリスト教は現地の神を滅ぼしたのでそれがオカルトになって祟るのだといっていますが。

宗教というものは広がっていく過程で現地の信仰に左右されるものです。仏教も中国では中国風に解釈されましたし、その中国仏教が日本に入ってきたので、日本の仏教はもともとの原始仏教と大きく変わってしまっているのです。

キリスト教はもともと中近東の宗教です。ローマ帝国でも最初は迫害され、後に国教になりました。しかしゲルマン人がローマ帝国を滅ぼして西ヨーロッパにやってくると、ローマ・カトリックはゲルマン人に布教を始めることになりました。またもう少し後には北欧でバイキングが暴れ出します。こちらにも布教を行うことになります。その際、布教がしやすいようにゲルマン人の土着の信仰や風習を取り入れていったのです。ですからヨーロッパではいろいろな国や地域で独自の風習やお祭りがたくさんあります。現地の神は滅ぼされないで、形を変えてキリスト教の衣を着せられて残っているのです。

また、カトリックの聖母マリア崇拝や聖人崇拝ももともとのキリストの教えにはないものです。キリスト教では偶像崇拝は禁じられているのに、マリア像や聖人像を作ったり聖人の遺骨や遺物を拝む聖遺物崇拝が行われました。マリア崇拝は地母神崇拝に通じますし、聖人崇拝は偶像崇拝であり多神教に近いです。この聖人にお祈りすれば病気が治る、とか、商売繁盛する、とか。神話伝説の神々の像が聖人・聖女に置き換えられていった結果です。

長々と講釈をしてすみません。


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11413. Re: 日本語と英語の距離

お名前: jun http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/
投稿日: 2003/2/23(12:27)

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杏樹さん、詳細なお返事どうもありがとうございます。

 お返事から拝察するところ、語学・宗教学などの専門家でいらっしゃるのでしょうか? あるいは比較文化学といった方面でしょうか?
 専門家にいろいろと教えていただける機会がこういう場で得られるということは本当にありがたいことです。
 素人の疑問をもう少し書き連ねてみたいと思います。もう少しお付き合い願えれば幸いです。
 あまりにも初歩的な疑問で、そんなものは成書にあたれというのものあるだろうと思います。その時は無視してください。

〉ラテン語はamoと言えば一人称ですよね。二人称や三人称、複数になると変化しますよね。ということは、主語は省略したとしても、実際上の主語が何であるかを特定しなければ動詞が使えないわけです。日本語では主語がなければその場の状況や前後のつながりによって意味を判断することになります。しかしラテン語は動詞を見れば主語は一目瞭然です。一目瞭然なので「わかりきったことは省略する」のです。そこが日本語とラテン語の違いです。

 ラテン語で cogito といった場合、これは英語では I think だと思いますが、ラテン語において一人称単数の主語が省略されているのではなくて、cogoto という語がそのまま I think と等価であるということではないでしょうか? 動詞の活用形を見れば何が主語かわかるから、主語が省略されるのであれば、ドイツ語やフランス語でも省略の方向にいくのではないでしょうか? Ich や Je がそれでも必要な語意識というのがあって、それは人称代名詞の主語が省略され得る言語の語意識とは何か決定的な違いがあるように思うのですが。
 人称代名詞の主語がなくてもいいのか、それが必須であるかが一神教と関係があるのはないかという思いつきみたいなことを最初に書いて、どうもこれは見当違いであることはよくわかってみました(^^)。

〉インド・ヨーロッパ語が世界的に広く使われており、文法体系や言語同士の関係も研究が進んでいるのは確かです。そしてインド・ヨーロッパ語を基準にすると日本語があいまいに見えるという側面も確かにあります。
〉しかしやはりインド・ヨーロッパ語は理論的に構築された言葉であるのに対し、アジアの言葉は情緒的な面が多いように思います。例えば主語がない、ということについては主体がはっきりしないということになり、つまり上で述べたように前後の意味や状況を考えて意味を取る必要があるわけです。

 つまりアジアの言語は状況依存的・文脈依存的ということであると思うのですが、これは情緒的ということとは違うように思います。状況や文脈が理解される場においては明晰な言語でありうるのではないでしょうか? 状況や文脈がはっきりすれば、主体をはっきりさせる必要がない、主体がはっきりしなくても間違って理解されるおそれはない、ということではないでしょうか?
 インド・ヨーロッパの言語というのは言語自体で自己完結しなくてはいけないという要請が強いように思います。ですから「すべてのクレタ人は嘘つきであると、あるクレタ人が言った」というような文章が大問題になってしまうわけです。でもアジアの言語観からいったら、こんな文章は問題にもならないのだと思います。このクレタ人がどういう状況でそれをいったかが分からなければ、この言葉だけとりあげて議論することは無意味である、ということで終りではないでしょうか?

>私はアジアの言葉をたくさん知っている訳ではありませんが、中国語を習い始めた時そういった感覚を持ちました。英語よりも「雰囲気」で解釈するような面が多いと思いました。また、インドネシア語をかじった時は言葉の構造や意味がヨーロッパ語のように明確ではなく、その場の雰囲気やニュアンスを重視するのでかえって習得するのが難しいように思いました。「接頭語」などというものがあって、どういう時に付けるのかというと、いくら説明を読んでもはっきりしません。使いながら感覚で覚えるしかないようでした。

 でも英語でもどういう時にthe がついて、どういう時にはつかないかなどというのは、最終的には習慣でそうなっているとしかいいようがない部分があって、使いながら覚えていくしかない部分も多いのではないでしょうか? これはどの言語でも同じだと思うのですが・・。

〉「日本人は英語が苦手」というのは、単に学校で習った英語が使えないだけで、英語だけが特に難しい外国語というわけではないのです。100年以上前はフランス語が世界語の地位を占めていました。もしフランス語が世界語のままだったら、中学一年になったとたん不規則動詞や規則動詞の活用を丸暗記させられることになり、名詞が出てくるたびに男性名詞が女性名詞か覚えなくてはならず、もっと落ちこぼれが増えていたかもしれません。そうすると「日本人はフランス語が苦手」と言われていたでしょう。英語はヨーロッパ語の中では単純化されて入りやすい方だと思います。ただ、英語で困るのは発音でしょう。英語の発音は難しいですから。おまけにつづりと発音が一致しないのでつづりや読み方を覚えるのが大変。

 わたくしは日本人が英語が苦手であるのは、単に文法体系が日本語が孤立しているからというレベルの問題ではなく、日本語が主語がなくても成立する言語であるのに対して、英語は主語がなければ絶対に成立しない言語であるという、言語が規定する文化構造の違いそのものに由来するのではないかと考えています。

 片岡義男氏が「日本語の外へ」(筑摩書房)のなかの一文で、あるアメリカのテレビの討論番組にアメリカとの通商交渉の日本代表のような人がでて(とりあえず日本人としては英語ができるひと)しゃべった英語をとりあげています。その人の英語は英語の正用法にかなっていないものだったといいます。以下若干引用。

 「正用法とは、たとえば、主語のとりかただ。主語を立てて語り始めたなら、そこには論理への責任がともなう。主語はその文章ぜんたいにとっての論理の出発点であり、責任の帰属点でもある。主語は動詞を特定する。動詞はアクションだ。アクションとは責任のことだ。・・・。いったん主語を選んだなら、それにふさわしい動詞の働きによって、論理的な結末にたどり着かなくてはいけない。・・・。彼ひとりに限定することなく、彼のような人が英語でしゃべっていくのを聞いていて、いたたまれなくなるほどのきまりの悪さを覚える理由は、さらにいくつもある。そのなかで最大のものは、センテンスのなかばあたりで主語を忘れてしまっている気配がある、という恐るべき事実だ。・・・。主語を忘れているからには、動詞も彼らは忘れている。・・・。(しかしかれらはそんなことに)最初からまったく頓着していない。」

 かれのしゃべっていることは、発想はまったく日本語による発想で、それを英語になおしただけ、なんだというのです。
 ここで杏樹さんのおっしゃるインド・ヨーロッパ語が論理的であるということが重なってくるのですが、言語というのは人間間でやりとりされるものですから、人間関係の違いは言語に決定的に影響するわけで、日本人同士の人間関係と西欧における人間関係は決定的に違うのである以上、日本人が英語の発想(主語を必然として、その主語が動詞を要求する)自体を身につけることは多大な困難をともなう、それが日本人が英語が苦手な根本的な理由なのではないかと思っています。
 「以心伝心」の国の人間が、言語で孤独に主張することでしか他人とかかわっていけない世界を本当に自分のものにすることができるのだろうか、と思います。

 ここでの多読も、とにかくたくさんの英語と接することで、そういう英語的な文化的背景になじんでいくことが大きな目的となっているのだろうと思うのですが・・。


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