Re: 英語学習法:私は 辞書を読む。あなたは ホテル街に行く。それでいいじゃ(あ)ないか

[掲示板: 〈過去ログ〉読書のことなんでも -- 最新メッセージID: 658 // 時刻: 2024/4/27(14:30)]

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447. Re: 英語学習法:私は 辞書を読む。あなたは ホテル街に行く。それでいいじゃ(あ)ないか

お名前: 極楽トンボ
投稿日: 2008/6/7(12:30)

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主観の新茶さん、こんにちは。極楽トンボです。晴山本の報告に部分反応です。

"主観の新茶"さんは[url:kb:444]で書きました:

〉(10) 社会科学の学習は,分野にもよるが,抽象的記述が続く中で,次々と,簡単な例の一コマ的または数コマ的映像を思い浮かべることによって,進んでいくのが通常である。最近の本は,適宜,具体的事例が載せられているので,事例が載せられていない記述も,他の具体的事例を手がかりに,類推して想像することによって,読み進めていくことになる。経済では,歴史的事例や論理的想定事例を,法律では,判例等を,具体的事例とすることが多い。

〉(11) 映像がでなくても,一こま的イメージ,簡単な絵としての事柄を,次々と転写していけば,英語の多読が比較的容易に続くと思われる。

〉(12) たとえば,「酒屋が,ビール1ダースを,顧客に配達した。そのうち,1本は,底に不純物が混じっているのを,開扉してみて発見した。顧客は,代金減額請求ができるのみか,取り替えることを請求できるか」という事例では,業者と顧客とビールのやりとり,ビールを開けたときの様子について,簡単な絵を思い浮かべる。「一般に,ものの売買で隠れたる瑕疵が発見された場合は,物が特定しているから,代金減額請求などができるのみであって,取り替え請求はできないが,代替物で商品に隠れたる瑕疵が存在した場合には,顧客が受領したからといって,未だ特定しているとはみなせないから,代金減額請求のみならず,不完全履行として,取り替えることを請求できる。」という抽象的な文章があったら,代替物というところで,上記ビールの事例を思い浮かべる。そして,上の抽象的記述のみが,別の単元であったなら,ビールの事例を思い浮かべる。ビールの事例ではなくても,別の適切な事例で,もちろん良い。買ったのが,電気製品だったら,どう考えるべきか。何が,修理だけ要求できて,何が,取り替え請求できるか。電気製品として,何を思い浮かべるかで,その人の法律的センスが決まる。いずれにしても,抽象的記述を具体的事例に焼き直して読まなければならない。私は,学生のとき,そして,実務に入り,社会科学がわかる人とわからない人の様子を見ることができた。抽象的記述を読んで,トンチンカンなことを考えるのが,一番社会科学を理解できない理由だ。全然別な映像や絵を考えてしまうのである。また,不正義な人,たとえば,どんな製品でも,新しいのと取り替えれさせれば良いのだと考え,そもそも,当該社会科学の記述に反感を持って,その先に思考が進まない人は,論理が理解できない。そういう不正義な人は,ごく少数存在する。しかし,普通の人は,不正義の誘惑と,正義の思考は,両立するので,問題はない。英語で,社会科学を学習するときも,同じように,想定される適切な事例を自分で作りながら,読む。これが,社会科学の英語を読む方法だろうと思われる。

最近、多読の際に脳内にどんな映像が映し出されるのか、どんな音声が響くのか、という議論が掲示板で出ていましたが、社会科学や自然科学などの書物を読んだ際は、どんなふうになるのかなと思っていたのでおもしろいです。よく、理系の人で専門の論文はすらすら読めるんだけど、普通の英語は読めないってぼやく人がいます。脳内に数式や実験風景が映し出されるのかな?

〉(16) 1970年代から20年余り,英語を学習させるための外部環境は,必ずしも良好でなかったことがわかった。私の内的環境ばかりではなかったのだ。
〉(17) CD,インターネットにより,英語を多聴するのに,少なくとも,ここ10年以上,良好な環境が整備されつつある。

これを読んで思わず、昔大学に入ったときに父に言われたことを思い出しました。父は田舎の高卒サラリーマンで、およそ英語などに親しんでいるような人ではなかったのですが、わたしが大学に合格してほっとしていたら、これからは大学受験のための英語じゃなくて本当の英語の勉強をしろ、などと言い出したのでびっくりしたことがあります。

話を聞いてみたら、どうも父は高校生のころ、VOAのラジオ放送を聴くのが好きだったことがわかって二度びっくりしました(ラジオで落語を聴くのも好きだったらしい)。そして、市の中心部にアメリカ文化センターというところがあって、米国の本や雑誌の閲覧貸出し、映画の上映などをやっていて、市内の高校生のたまり場のようになっていたそうです。そのアメリカ文化センターにせっせと通って英語に触れることを楽しんでいたそうです(本当は女子高生が目当てだったと私は睨んでいますが)。昔は、意外と英語にまともに触れようとする雰囲気が普通の高校生にあったことがわかります。

その様子は、三木卓の中高時代を振り返った自伝的小説群を読むと出てきます。進駐軍のはたらきかけか何かで、50年代の日本の地方都市にはそういう施設があったようです。

大学生の時、わたしはアメリカのプロパガンダ放送なんか聴けっかよ、ぐらいにしか思っていませんでした。もちろんその後英語の勉強などしていません。いまになって、わたしはせっせとシャドウイングなどしていますが、これを思い出すとなんか変な気持ちになります。父の若い頃よりも私の若い頃の方が英語に対して内向的だったかもしれないなあと思いました。

父が50年代にVOAを聞いていて、いまわたしがVOAでシャドウイングしているのは、あたかも戦後日本の英語学習史の縮図のようです。


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