翻訳の可能及び不能について

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515. 翻訳の可能及び不能について

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/11(21:13)

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 翻訳の可能及び不能について
 
 私は、昨年であるが、2008年2月27日発刊の中倉玄喜訳のカエサル著「ガリア戦記」を読んだ。
 中倉氏は、同書108ページ以下において、亡き文芸評論家小林秀雄氏の言として、大要、「ガリア戦記の訳文は、読みづらいが、原文の名調子が、わかった。」旨の感想を引用している。
 もとより、小林氏の読了したガリア戦記は、中倉氏の訳文ではないが、同氏の矜持として、原文を正確に翻訳できるし、むしろ日本語で読んだがゆえに、かえってガリア戦記を正しく理解する旨述べているのがわかった。
 私も、中倉氏の意見に賛成である。
 私が最近読んだいくつかの本も、同趣旨の見解が多い。

 これに対し、反対説もある。
 反対説の極論は、「英語を日本語に翻訳するのは、常に正確ではない」というものである。
 しかし、私には、この見解は、英語読解力及び日本語変換能力等の不足に依拠するものとしか思えない。

 ただし、市販の翻訳物、すべてが、正確な翻訳ではないこと、あたかも、たとえば、医者の診断、すべてが、正確な診断でないことと同じく、驚くことではない。
 
 一般的には、名著でなくなるに連れ、翻訳家の質も、名翻訳家でない確率が高くなると思われる。

 また、私は、自然科学、次いで、社会科学、一部の人文科学は、英語その他外国語のままで読んでも、日本語で修行を積んでいる限り、または、修行を積んでいなくても慎重に読む限り、理解可能であるが、小説(児童小説を含む)、エッセイ等の方は、必ずしも理解が正確にできないと思われる。
 したがって、私は、小説、エッセイ等の方が、むしろ、翻訳家による翻訳の必要性が高いと思う。
 近時、発刊された諸書籍の中にも、同趣旨の見解があり、私は、その見解のほうが良識ある見解であると再認識した。

 なお、読んだ本の中には、言語の本質は、文法ではなく、語彙の豊富さの中の適切な選択と、文体にあるという見解があった。
 文体は、言語の本質である、という点に、意を新たにした。

 もとより、以上は、私の見解であり、他者の異なる主張の存在を否定するものではない。


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