田山花袋は、多読した結果、英語の内容を理解していたか。

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514. 田山花袋は、多読した結果、英語の内容を理解していたか。

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2009/1/11(21:06)

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 田山花袋は、多読した結果、英語の内容を理解していたか。
 柳父章著「翻訳語成立事情」岩波新書を手がかりに、これを論ずる。

1 柳父章氏のホームページ
  柳父氏が、ネットで公開されている社会批評は、寸にして要を得ていて、好感が持てる。
  年を取るにつれて、ますます文章が短くなりつつ、論旨が明快になるようだ。
  専門の翻訳者の仕事のみならず、社会科学などの知見の研鑽を積まれている証左であると思われる 。

2 柳父章著「翻訳語成立事情」の構成
  同著は、全10章、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼、彼女」の順序で論が進められる。
  このうち、新造語として、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「彼女」の7個を、転用語として、「自然」「権利」「自由」「彼」の4個を掲げる。
  新造語は、翻訳に際して新たに作られた用語である。
  転用語というのは、元の意味は、西洋語の原語と、微妙に又はかなり違うけれども、新造語を考案するまでないとして、改めて違う意味に使うようにしようと意図された用語である。
 
3 新造語も転用語も、英語など外国語の意味する内容どおりに把握されていれば、それでよい。
  しかし、違った意味に使用するならば、それは、その英語などの意味が、わかっていないということである。
  よく分かっていないと体よく言ったとしても、それは、オブラートに包んで社交辞令で言っただけであり、はっきり有体にいえば、まるっきり、分かっていない、つまり、まるっきり理解していないということである。
  私は、そう思うし、柳父氏も、その趣旨で述べていると解する。同書9章自由の項P190

4 10章は、田山花袋の「布団」を俎上に載せ、柳父氏は、花袋が、「he」の意味も、「彼」の意味も、ともにわかっていないと述べている。
  まさに、「heと彼とは、違う」のである。
  柳父氏は、最終的には、花袋が、heの意味と、「こそあど」代名詞に由来する「かれ」とを混在させたという意味で、「かつて知らなかった重要な働きを担わせることになった」と述べているが、これは、決して、ほめ言葉ではない。
  本書全体の内容を総合すると、花袋の英語理解に対する、痛烈な皮肉、否、痛烈な批判が存在するといって良いだろう。

5 田山花袋は、heの意味を誤解し、その言葉の本質が分かっていなかった。
  しからば、他の用語は、如何。

6 9章の「自由」について検討する。
  布団には、5箇所、「時雄の教訓は、キリスト教の教訓より、自由で権威あり」「一度肉を男子に許せば、女子の自由は、全く破れる」「貴下は、父としての主張あるべく、芳子は、芳子としての自由あるべく」「芳子を自分の自由にする、ある権利」「女の弱点を利用して、自分の自由にする」と使用される。
  最初の「時雄の教訓は、キリスト教の教訓より、自由で権威あり」のうち、時雄の教訓は、「自由」は、「自分でやったことは、自分が全責任を負う。自ら考えて、自ら行う」と、小説の中に説明があるから、自由とは、時雄の教訓の方が、キリスト教の教訓よりも、その内容において、教訓の数が僅少である上、教訓の質において、厳格ではないという意味のようである。
  2番目の「一度肉を男子に許せば、女子の自由は、全く破れる」とは、処女を喪失した当該女子は、男子に依存せずんばおかない精神状態になるし、親及び分別ある大人は、当該女子において処女であったときと同じような婚姻を薦めることはままならぬという精神状態になることなどから、他に良縁を得る可能性が喪失するという趣旨のようである。
  3番目の「貴下は、父としての主張あるべく、芳子は、芳子としての自由あるべく」とは、芳子の責任を併有する自由というより、放縦なわがままの自由を意味する趣旨のようである。
  4番目の「淑子を自分の自由にする、ある権利」とは、女学生淑子と男女関係を持った男子学生が、淑子を自分の支配下に置いて淑子の行動を支配する事実上の強制力を有するというような趣旨のようである。
 5番目の「女の弱点を利用して、自分の自由にする」とは、男子学生が、女子学生の貞操を蹂躙した結果、互いに合意とはいえ、女子の方に弱みが発生して、事実上の支配権を有するという趣旨のようである。

 これら5箇所は、freedom=自由の内容として、正しく使われているか。
 以下の定義に照らし、正しく使われていないことは、明らかである。

7 freedom=自由の定義については、既に柳父氏の解説のみならず斯界の定評  ある文献を参照して説明したので、同じものを再説する。
  自由は、freedom(又はliberty)英 等の翻訳語である。
  自由も、新造語ではなく、中国古典の転用語である。
  freedomの前半の原語fri-は、「仲間」であるが(参照・英語のfriend友達)、それは、「独立した個人としての集合体である仲間同士。責任観念を自覚した個人の集合体としての仲間達」という意味である。
  -domは、「勢力範囲」「〜の世界」である。
  独立した人格の集合体の範囲及びその行動可能な世界が、本来のfreedomである。
  ところで、個人が自由放縦に権利を主張すると、他人の自由放縦を犯すこともあり、まずいことが起きる(いわゆるホッブスのリヴァイアサンの世界)。
  そこで、各人の自由を、仲間との契約(contract)により、幾分か制限し、その残り(residual)をもって、freedomの概念とした。
  つまり、西洋にとって、自由とは、本来、残り、残余物であるといわれる。
  この残余概念が、西洋のfreedomの本質である。
  もちろん残余物といっても、それは、理念としてのものの言い方であって、その内容は、広い。
  自由は、他人の権利を侵さないという責任を併有した概念である。
  中国古典の自由は、これと異なり、「放縦」の意味も包含し、しばしば   「自由という概念のはき違え」があった。
  自由という言葉は、明治以前は、民衆に流行して、使用された言葉ではない。
  翻訳者達は、freedomの翻訳語として、「自由」以外もいくつか考案した。
  しかし、言葉というものは、いくら為政者が力んでも、国民=民衆が使用しなければ、日常用語には、使われない。
  今日でも、政治、経済、法律等の社会科学、化学、物理等の自然科学の用語は、一般国民が、広くは使用しないものもある。
  freedomとその訳語は、明治初期から、民間の啓蒙者達も、盛んにこれを奨励した。
  そして、「自由」という訳語は、むしろ、翻訳語として適当ではないという危機感も強かった。
  「自分勝手も許される」「放縦でよい」、「勝手でしょ」、「何をやろうが自由だろ」、という意味で、民衆が使う危険があったから。
freedomには、自分勝手という意味はないし、何をやろうと許されるという意味もない。
  だから、ほかの翻訳語も、いくつも考案した。
  しかし、日常会話でも、自由のみ、翻訳語が生き残った。
  「自由」のみ訳語が生き残ったのは、民衆が使ったから。
  そして、民衆の使用する「自由」という用語は、「他人の権利を侵さない責任を合わせ併有する、残余物を意味する概念」としてではなく、「自分勝手が許される」「本来、人は、何をやろうが許されるはず、それが自由である」などとして理解されることがあり、実際にその意味で言動する輩も、また、多くいた。

8 田山花袋の無理解
  freedom=自由は、まず、独立した個人でなければならぬ。
  その意味では、ローマ時代においては、自ら生計を営むことができない子供をはじめ、大人であっても、独立して生計を営む力がないようでは、そもそも、自由を持っているとは言わないのである。
  それだけではない、元来、自由は、他者から攻撃があった場合に、これを防衛するだけの力を持っていること、場合によっては、攻撃する力も有する独立性が存在することが、前提となっている。
  また、自由とは、自ら言論を持って、自ら力を使用する場合には、その力の使用が、攻撃ではなく、正当な防御であることを説明できる能力が存在することを意味する。
  もっとも、これは、ローマ時代の自由人を意味するのであって、現代とは異なるが、現代でも、責任を併有するというのが、自由の本質である。

10 田山花袋の「自由」の理解
   花袋は、このような西洋の概念を理解していない。
   花袋は、せいぜい、従来の日本の自由の意味を理解しているに過ぎない。

11 田山花袋の「布団」のほかの用語
   布団には、「彼」「自由」だけではなく、「社会」「恋愛」「自然」「権利」が使用されている。
   そして、その意味は、ことごとく、柳父氏の説く言葉の由来とは異なった、間違った使用例である。

12 田山花袋の英語
   花袋は、英語で西洋の小説を多く読んだ。
   この「多読」により、花袋は、西洋思想を日本の小説に取り入れることをもくろんだ。
   布団は、その目論みに依拠した小説であり、幾多の西洋小説が引用されている。
   私は、「読んだ」とは、日本語の文献であれ、西洋の文献であれ、最低限度、「作者の言説(それは、話のあらすじだけではなく、また、作者が説明していることだけではなく、本質は、その時代の思想であるから、作者でさえ、意識していない、知っていて当たり前の、空気のような思想であることもある)が、わかった」「理解できた」ことを必要とすると考える。
   私は、単に巻を全うできたこと、つまり、終わりまで読んだことをもって、「読んだ」とは言わない。
   もう少し詳しく説明すると、私は、本来は、「読んだ」とは、単に作者の言葉で作者の言説を説明できることではなく、「自己の概念装置」に言い換えて、自己の体系の中に、作者の言説を取り入れて説明できることであると考えているが、もし、そこまでいかないとしても、作者の言葉で作者の言説を説明できること、さらに、そこまでいかなくても、「作者の言説が、わかった」「理解できた」ことをもって、「本を読んだ」という意味であると考えている。
  そのような私の理解は、柳父氏も、同じであると、私は、考えている。
  このような理解によれば、田山花袋氏は、確かに、西洋小説を英語で多く読んだし、これを糧に、新たな小説をものしてやろうと意気込み、翻訳語をちりばめ、西洋小説を引用し、新時代の男女の道を説く小説を書いたのであるが、その実、西洋思想の概念は、「よくわかっていなかった」のである。
つまり、全くわかっていなかった。

  翻訳語は、明治20年ごろまでほぼ出尽くしたのであるが、そのころ翻訳した福沢諭吉らは、英語など外国語の内容を的確に把握し、翻訳語の内容の適切性、問題点を把握していた。
  それより後の世代に下り、情報の取得としては有利な立場にあったはずの田山花袋は、これを理解できていなかった。

 その違いは、どこにあるか。
 私は、田山花袋と、明治初期の翻訳者たちとは、西洋の思想の由来、内容を記載した書物をきちんと読んでいたか否かの違いが大きいことは、歴然としていると考える。

 私は、この理は、現代でも、同じであると考える。
 私は、現代においても、英語をはじめ西洋の思想を理解するには、まずは、古典のきちんとした翻訳をサイドリーダーとして読みつつ、きちんとした学者らの概説書を読み、西洋の思想を理解しなければ、英語の理解もおぼつかないと考える。

 もっとも、翻訳語をちりばめ、ともかく、当時としては、男女の関係について、センセーショナルな小説を書けたことは間違いないから、その程度で十分ではないかという見解であれば、いかんとも仕方がない。

 ところで、私は、柳父氏が、読者に、私のような感想を引き出させるため、そのヒントとして、田山花袋の小説を掲載したのか、はたまた、田山花袋の英語の理解度について、どう考えるに至ったかか、聞いてみたい気がする。

 柳父氏が、福沢諭吉になぞらえることが可能であるのであれば、現代の英語の使い手と称する人達が、田山花袋の陥穽にはまっている可能性高きにあらずとはいえないと思われるからである。
 
 以上は、私の見解を同じくする多くの書物にも負っているが、基本的には、私個人の見解であるとともに、他の見解の主張自体を排斥するものではない。


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