Re: 飾りじゃないのよ阿弥陀は

[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/4/28(00:54)]

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243. Re: 飾りじゃないのよ阿弥陀は

お名前: 極楽トンボ
投稿日: 2008/10/16(18:32)

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たかぽんさん、レスありがとうございます。極楽トンボです。

〉でも、英語として読めている部分もあるわけで、それでいいんじゃないですか?
〉そのあたり、bumpyなのが、だんだん、なめらかになっていくと思いますよ。

100%英語として読めていないわけではないので、多読を通じて今後英語として読めている割合を増やしていければと思っています。それがいまの最大の希望です。

〉〉それでは、どうやったら英語を英語として読めばよいのでしょうか?英語ができないから多読をやっているのであって、英語ができない人に英語が英語として読めるわけがないんです。英語を英語として読める人は、英語の書物を英語を介して、つまり英語でものを考えながら読んでいる人に限られます。英語を英語として読めと言われても、英語でものを考えながら英語が読めるようになった人にしかその言葉の意味が実感できないんじゃあ、単なる言葉遊びに過ぎないじゃないかと、ずっと思っていました。

〉英語を読んでるときでも、英語自体を読んでるわけではないですよね。
〉その記号が意味するものを読んでるわけで。
〉たとえば、seaとかskyとか聞いて、直接想起される風景があれば、それは十分、
〉他言語を介さず英語を読んでる、と言えると思います。
〉それがだんだんに、複雑な文章も、英語で直接わかってくるようになってくる、と。

〉英語読んで直接に意味がわかる、というのは、「考えてる」わけではないですよね。
〉There's a boy. つったら、そういうことなので、別に「考えて」わかるわけではない。
〉そういうことですかね。

英語読んで直接に意味がわかる、というのは一見、「考えている」わけではなさそうですが、これは日本語で考えていない以上、英語で考えているもしくは英語で感応している事になると思います。簡単なイメージが思い浮かべられればすむような本の場合は、英語で感応していることになるわけですね。

〉(ただ、「英語でものを考えることができない」かどうかは、わからないなと思ってます。
〉 私、ときどき、夢の中で英語で激しく考えてることがあります。
〉 たまに英語をしゃべるときにも、日本語で考えてません。(だからすごく幼稚だけど…)
〉 なので、そういう回路ってできていくものじゃないかな?とか思ってます。)

うーん、わたしも英語の回路が構築できたらいいなー。

〉〉私がこのように考えるようになったのは、ORTを体験したことにもよります。ステージの低い方は、何も考えなくても楽しく読めます。ステージ6を読んでいるときに、わたしはある変化を感じました。あたかもそれまで回転していなかった水車小屋の水車がゆっくりと動き出すような印象でした。わたしの心の和訳装置が動き出したのです。いや、正確に言うとまだ和訳にも和訳のための文法的分析にも入る前の段階です。文法的分析を行うためには、その前に、英文のどの個所を分析すべきかを決定しなくてはなりません。この点は、おそらく、英語でものを考えながら読んでいる場合も、高速和訳しながら読んでいる場合も共通だと思います。わたしの場合は、和訳の前段階のこころの動きだと思います。

〉なるほど。わかる気がします。
〉私は和訳装置が動かないと言いましたが、和訳装置が動きそうになるような本を無意識に避けているだけかもしれません。
〉和訳装置が動きそうになる本とは、「難しいけれど、どうしても細かく意味を理解したい本」ですね。

そういう本は、もしかすると多読向きではない本かもしれませんね。

〉何ごとも、とらわれすぎると、よくないですよね。最終的には、自分の心に聞いてみることですね。
〉それで、ちょっと気になったんですけど、私だけがわかってないのかもしれませんが、
〉多読三原則に則った読書だけが「多読」なんでしょうか?
〉なんか、そういうとらえ方が圧倒的なようなので、あれ、私ってヘン?とか思ってます。

多読三原則に則った英語読書だけが「多読」とは限らないと思います。しかし、多読三原則に則った英語読書のことをsss多読と言うのだと思います。

しかし、これはsssの掲示板に投稿する人がすべてこれを守らないといけないというものではありません。sssの多読を実践する人がこれを守っていないからといって、お前のやっているのはsssの多読じゃないと非難する必要はないでしょう。三原則はsss多読の方法上の理念であって、したがって必ずしも現実がそれにまったく一致している必要はないわけです。ですから、sss多読を実践する人は、一応この三原則を念頭に置いて英語の本を読んで楽しんでいれば、それでまったくさしつかえないと思います。理念ってそういうものだと思います。辞書をやたら引き過ぎないように気をつけるとか、どうでもよい細部に拘泥しすぎて読み進めなくなくならないようにするとか、あるいは方法に過ぎないものが自己目的化して駄本が投げられなくなっても困るじゃないですか。その程度でいいんですよ。

わたしにできるのは、飛ばし読みだけです。こないだついにレインボウマジックに頻出する英単語を英和辞典で引いてしまいました。CLUMPという単語でしたが、その意味はすぐ忘れてしまいました。むかし、中国語の発音を調べては忘れ、調べては忘れているうちに、その字が字引の何ページに載っているかばかり覚えてしまい、かんじんの発音が覚えられなかった苦い記憶が蘇えりました。

〉要は、その言語の本をいっぱい読む、というのが「多読」ということではないのかと。
〉なので、もちろん、精読と多読は対立するものでなく、精読も多読のうちに入る。
〉そんなとらえ方のほうが、「多読」の幅がひろがって、自由になれるような気がするんですけどね。

おっしゃるとおりだと思います。自由にやってくださるとよいと思います。少なくともわたしは、たかぽんさんを非難しません(よもや非難する人は誰もいない思いますが)。

〉もちろん、少なくとも最初は多読三原則に従って読んでったほうがいいとは思うんですが、
〉それも中には「合わない」って人もいるでしょうし。

わたしはまだ自分の多読生活をふりかえって回顧するような地点に立っていません。つまり、成功だったとも失敗だったとも言える状態ではありません。とりあえずsss多読をずるずると4年も続けているだけです。これがすでに失敗だったりして?1000万語も読んでやっと、sss多読は失敗だったよ、なんて衝撃の報告したりして?わたしも気が利かないほうなので、自分がsss多読に向いているのかどうか自信があるわけではありませんが、ほかに手はないので仕方ありません。

〉ただ、「英語ができる」ようになるには、ほんとうに多読が良いのか?っていうのは、
〉かなり早くから疑問に思っているところではあります。
〉やっぱり、最初は音からみっちりと、そして、コミュニケーションを通じてのほうが、
〉いいんじゃないのかなぁ、なまじ文字から入ると、頭でっかちになるというか、
〉コミュニケートできる英語へとすくすくと育たないのじゃないかなぁ、と。

まったくおっしゃるとおりです。わたし、多読開始当初は、難しい英語の本がよめるようになれればいいやと思っていたので多読にはあまり疑問を感じるどころか、すばらしい方法だと思って飛びつきました。いまは、会話もできればとか、子供が小さいうちに読み聞かせをしてみたいとか、多言語もとか、いろいろ目標ができてしまい、そういう意味で英語多読に集中できず、すこし迷いがでています。

〉でも、これはウンウンと頭をふりしぼっても、解決しない問題なので、
〉私の場合は、心が好むことを、好きなようにやっています。多聴、多読。
〉自分が何を目的としてやっているのか。

〉まぁ、何か、こうなりたいというものがあるのでしょう。そこへの道を、
〉自分の「好む」という感情が教えてくれていると思うので、それに従って、
〉へえ、どこへ連れてってくれんだい?てな感じで歩んでいます。

たかぽんさんはたかぽんさんのこころのいうことを聞いていれば安心して前に進めるんですね。わたしのこころはすこし曇っているので、こころの考えていることをいちいちチェックしないと心配でなりません。いっそこころを鍛えてわたしの目標に近づけるようにしたほうが早いかなあと思いますが、妙案はありません。こころはどうやって鍛えればよいんでしょうか?

〉とまあ、あー、レスのふりして好きなことたくさん書いてしまいました…
〉てきとうに読み流してください。(って、ここで言っても遅いな…)
面白く読ませていただきました。ありがとうございます。


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