Re: 「多読三原則」にしばられず 多読一原則:「日本語を介さず 好きなように読む」(長文ごめん)

[掲示板: 〈過去ログ〉多読と英語学習・試験に関する掲示板 -- 最新メッセージID: 1756 // 時刻: 2024/4/28(12:33)]

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213. Re: 「多読三原則」にしばられず 多読一原則:「日本語を介さず 好きなように読む」(長文ごめん)

お名前: 極楽トンボ
投稿日: 2008/10/14(00:54)

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たかぽんさん、fionaさん、こんばんわ。連休中、出張してたら、掲示板がすごいことになっていてびっくりした極楽トンボです。もしかして雰囲気がわからずにズレたこと言っていたらごめんなさい。

「日本語を介さず 好きなように読む」というのは、これまで多くのタドキストたちの多読観の最大公約数的なものだと思います。私の記憶では、ある著名なタドキストの「多読は、英語を英語として読めばよい」という名言が最も印象深いです。

「英語を英語として読めばよい」とわかっていても、実際にはこれがなかなかできないわけです。わたしはいまだに、うかうかしていると心の英文和訳装置が自動的に発動してしまいます。

日本語の読書の場合は、日本語の書物を(英語を介さず!)日本語として読めているわけです。英語の書物の場合は、英語として読めていないので日本語が介在してしまうのか、日本語が介在してしまうので英語として読めていないのか不明ですが、いずれにせよ英語の書物を英語として読めていないことにかわりないわけです。

それでは、どうやったら英語を英語として読めばよいのでしょうか?英語ができないから多読をやっているのであって、英語ができない人に英語が英語として読めるわけがないんです。英語を英語として読める人は、英語の書物を英語を介して、つまり英語でものを考えながら読んでいる人に限られます。英語を英語として読めと言われても、英語でものを考えながら英語が読めるようになった人にしかその言葉の意味が実感できないんじゃあ、単なる言葉遊びに過ぎないじゃないかと、ずっと思っていました。

それがいつのころからか、考えが変わってきました。いや、別に英語が読めるようになってきたってわけではありません。あいかわらずあっぷあっぷしてます。念のため。「英語の書物を英語として読む」の名言を吐いたその著名タドキストが、あるところで「多読は、何も考えないでただ読めばよい」というこれもまた名言を吐いておられるのを目にしてから私の考えが変わってきたのです。

最初は、その発言の意味がよくわからなかったのですが、たいへん気になったので、おりにふれてその意味を考えていました。そしたらだんだんわかってきました。つまり、英語の書物を英語として読むとは、英語の書物を何も考えないで読むことと同義なんです。冗談じゃない、何も考えることなしに書物を読めるわけがない!とお思いかもしれませんが、本当なんです。

われわれは英語でものを考えることができません。だから、英語の書物を英語を介して読むことができないように見えます。しかし、英語の書物を英語として読むことは可能だと思います。英語の書物を英語として読むとは、fionaさんがおっしゃるごとく、英語の書物を、日本語を介在させないで読むことにほかならないからです。つまり、日本語でものを考えないで英語の書物を読めばいいんです。すると、英語の書物を英語として読むことと、何も考えないで英語の書物を読むことが一致することになります。

われわれは日本語でしかものを考えることができません。だから、英語の書物を読むときに、思い切って何も考えないで読めばいいんです。日本語では何も考えないようにして英語の書物を脳内音読しているだけなのに、あらふしぎ、書物の内容がおぼろげながらわかってしまう。このとき、われわれは英語ができないなりに英語でものを考えながら英語の書物を読んでいるのではないでしょうか?

私がこのように考えるようになったのは、ORTを体験したことにもよります。ステージの低い方は、何も考えなくても楽しく読めます。ステージ6を読んでいるときに、わたしはある変化を感じました。あたかもそれまで回転していなかった水車小屋の水車がゆっくりと動き出すような印象でした。わたしの心の和訳装置が動き出したのです。いや、正確に言うとまだ和訳にも和訳のための文法的分析にも入る前の段階です。文法的分析を行うためには、その前に、英文のどの個所を分析すべきかを決定しなくてはなりません。この点は、おそらく、英語でものを考えながら読んでいる場合も、高速和訳しながら読んでいる場合も共通だと思います。わたしの場合は、和訳の前段階のこころの動きだと思います。

体の中に英語がたくさん蓄積したら、いつかこころの水車が回って英語の書物を英語で分析できるようになるかもしれない。そうなったらいいなと思います。いま思いついたけど、そういえば難しい中国語を読んでいるとき、たまにやさしい中国語に置換しながら読むことってあるよなあと思いました。たぶん、英語の堪能な人はそうやって英語の書物を読んでいるのではないでしょうか。

だから(やっと本題に入りますが)、多読三原則を守らなくてはならないけれども、多読三原則に縛られてもいけないという議論は、なんだか悟りをひらくためには、悟りをひらこうと思わないといけないけれども、悟りをひらくことにとらわれてもいけないという禅問答によく似ています。わたしの場合、心の自動分析和訳装置が作動することを抑えるうえで、多読三原則はとても重要な役割を果たしていると考えられます。しかし、多読三原則を金科玉条にしてしまうと、本を読みながら考えることができなくなってしまいます。

多読三原則は、自由なタドキストの主体の形成に寄与するものと考えられますが、これにあまりとらわれてしまうと逆効果になる危険もあります。でも、目的到達のための方法って、何であれ同じ危険があるのではないでしょうか?とすれば、仏教の本を読むとよく出てくるあの有名な喩えが参考になるにちがいありません。ありがたい教えというものは、筏と同じで、向こう岸の目的地に渡ったらもう不要なんです。だからそんなものにとらわれてはいけないんです。わたしにとって多読三原則は本当に役に立つけれども、いつか不要になるときがきっと来るんだと思いながら、多読をずるずる続けている次第です。


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