貴君の主張をつぶさに検討したが,「勉強の定義」を訂正すべき点は全くない。

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1617. 貴君の主張をつぶさに検討したが,「勉強の定義」を訂正すべき点は全くない。

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2015/1/4(00:08)

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1 貴君の主張をつぶさに検討したが,訂正すべき点は全くない。
 貴君は,私が物事(勉強の定義)を混同していると論難(=誤りがあると指摘し非難)したのであるけれども,貴君の批判は,該当しない。

2 すなわち,私は,これまで,勉強とは,漢文=中国古代文化において,「少し無理をしてでも楽しもうという」意味である,現代にも,同じ意味に使うべきであると主張しているところ,これを訂正する点は,全くない。
 貴君は,「勉強とは,無理をする以外の意味はない。無理をして,楽しい場合もあれば,楽しくない場合もある。したがって,楽しむという付加が付いていることは,混同に当たる。」と主張している。
 しかし,私は,混同していない。
 私は,中国古代文化=いわゆる漢文において,楽しくない場合には,勉強という言葉は,使用していないといって良いと考えている。
 これすなわち,勉強は,内在的に,楽しいという意味を包含する所以である。
 私の考えは,一海知義氏の著書を見て考えたのであり,根拠を有する(漢語の知識7頁:岩波ジュニア新書)。
 一海氏は,勉強という言葉自体,敢えていえば,無理をして楽しもうという意味があると述べている。
 私は,この説に賛同した。
 この著書を見て,なおも,貴君が自分の意見が正しく,私の見解が,混同しているというのであれば,最早,貴君の意見は,牽強付会(こじつけという意味)にすぎないというべきであろう。

3 さて,貴君は,私が,言葉の使い方を「混同した」と主張するのである。
 貴君は,「勉強」という言葉は,本来,楽しむ・楽しまないとは関係がない無色の言葉で,単に「無理をする」という意味である,しかるに,私が引用した詩は,勉強を楽しむという文脈で使用している,この詩で,「無理して楽しむ」という意味が出てくるのは,詩の内容からであって,勉強という言葉の本来の意味ではない,したがって,貴君の指摘は,楽しむという限定解釈を施した私の見解は,「今回の詩の内容で使われる勉強の意味と,勉強という語句そのものの意味とを混同している」という趣旨である。

4 再度,結論をいうと,私は,混同をしていない。
 混同しているという貴君の主張は,揚げ足取り(=言葉尻にいちゃもんを付けていること)である。

5 まず,非限定で「無理をする」場合と,限定概念である「楽しんで」「無理をする」とは,前者を○とすると,後者は,その○の中に○を書いた,つまり,◎の内側の丸になる。
 包含関係である。
 貴君の言わんとする「混同」は,比喩で言えば,蛇足(=余分なこと)である。「蛇足=楽しいという意味が付加しているのは,余分なこと」である。

6 ところで,混同とは,(1)AとBは,異なる概念であることを前提として,AをBと間違えるという意味と,(2)AとBを混和して,Cとなすという2つの意味がある。
 私は,仕事上,(2)の意味も使う。
 しかし,(2)の意味は,一般には,馴染みがない。
 貴君は,(1)の意味で「混同」を使用しているのは,明らかである。
 混同とは,一般には,例えば,公私混同のように,公と私という異なる概念を前提として,これを混同しているという使い方をするのである。
 私は,Aを,Aと異なるBと間違えたのではない。
 AとBは,「楽しむ」が付加されるかどうか,包含関係(=包摂関係)にある。
 別の言い方をすると,AとBは,大は小を兼ねるという拡大概念又は縮小概念の関係にある。
 異なる概念ではない。
 貴君は,A=部分=「勉強」という語句そのものを,B=全体=詩句の中の意味と間違えたのだから,混同であるというのである。
 しかし,間違えたことが,すべて「混同」という概念になるのではない。
 「楽しまないで≒苦しんで,無理をする」という概念が,限定がない無色の「無理をする」という概念に包摂されるという問題である。
 包摂するか,包摂されるかという関係の相違は,「混同」とはいわない。
 2つの概念が,良く似た類似概念で異なる場合には,取り間違えたときに,混同したと表現しても良いかもしれない。
 しかし,貴君は,包含関係ないし包摂関係にある場合,言い換えると,大は小を兼ねる場合に,大を小と間違えたという意味で,混同したと表現したのである。
 貴君の使い方は,まあ,大目に見て,百歩譲れば,完全に間違った日本語の使い方だと,切って捨てることは,できないかも知れないな。
 しかし,貴君は,「混同」という日本語を,少なくとも,適切には,使っていない。
 貴君は,私のみならず,大学で,学生相手に,間違っているというときに,「混同している」という言い方を多用されるものと思われる。

7 第2に,貴君は,漢和辞典のみを見て,言葉の定義を論ずるという弊を犯している。
 貴君は,かねがね,1979年(昭和54年)という貴君が19歳のころから辞典に頼らず英語を,とくに,主として小説に特化して読もうという主義を貫徹し,翻訳物は読まず,新聞とテレビを知識のよりどころとし,さらに,基本的に各種分野の専門書・啓蒙書等は読まないというやり方で,大学の英語の先生をしているところである。
 辞典を見て,勉強の定義を云々するのは,辞書を見ないという貴君の主義に反しているのではないだろうか。
 勉強というような昔からある言葉で,現在も使われている言葉は,権威ある漢和辞典を調べたことを以てのみ,定義を論ずるのは,軽率のそしりを免れないであろう。

8 第3に,貴君は,以下の区別を,明確にしていない。
 勉強など漢字熟語は,(1)漢文=中国古典語,(2)現代中国語,(3)明治前の日本語,(4)現代日本語=漢語の4種類を混同しないで,区別しなければならない。
 (1)は,これまで私が述べた定義のみ存在する。
 (2)の現代中国語は,「無理をする」という無色の意味しかない。
 貴君の掲げる定義である。
 (3)は,(1)の意味で使用するほか,勉強=学問の意味も,少なくとも,江戸末期ころには,使われるようになったと思われる。
 (4)は,(3)に付加すること,(ア)「嫌々義務教育の学習をさせられる」,(イ)「物の値段をまけて安くする」(ウ)「失敗したが,良い経験になった」「成功し,良い経験になった」などという意味などにも使用する。

 私は,(1)の意味は,現代の日本(4)でも,通用しているし,仮に間違った使い方をしている者にも教えて,通用させなければならないと主張しているのである。
 追加すると,現代日本語としての勉強は,学問という意味も,もちろん,ある。
 勉強は,「強いて何々する」という意味もあるが,その場合には,勉強は,もちろん,学問の意味ではないが,勉強の対象となるものには,学問が含まれる。
 「強いて学問をする」という言い方の場合は,「学問を勉強する」という言い方が,できるのである。

9 第4に,貴君は,当時の状況を無視し,方向違いの「あさって」の論述をして,私の意見を,くさ(腐)している。
 私は,この投稿のころ,当時大学の英語の教師であったtadokuの酒井さんを含め,投稿者の多くの人が,「世間には,親から無理に嫌々強制されて学習した人が多い」から,「親から無理に嫌々強制されて学習した」ことが,「勉強」であって,勉強という言葉は,使わないようにしようとか,勉強しないで英語をやろう,そもそも,勉強はしないでおこうとか強く主張しており,そのため,投稿において勉強という言葉を使う投稿者がいると,勉強はダメだなどと指摘するなどという発言があったから,私は,そういう状況を憂い,「勉強」という言葉を使わないという態度は,狭量であって,間違っているということを言わんがために投稿したのである。
 そんなことくらいさえ,貴君は,読み取れなかったのか。情けないね。
 私は,勉強という言葉が,辞書によっては,単に「無理して行うこと」と書いてあり,「楽しんで無理すること」とまで書いてないものがあることくらい知っていた。
 しかし,勉強という言葉が,「強」という言葉に引きずられるのか,酒井さんをはじめ,投稿者が,「嫌々強制される」という意味で,「勉強」という言葉を用いている状況を間違っていると指摘し,正しく改めたほうが良いと指摘するいう意味で,投稿したのである。
 私の定義に従えば,当時,酒井さんをはじめ多くの投稿者は,勉強していたのである。
 もちろん,今も,勉強しているのである。
 貴君の投稿は,こういう私のもくろみを台無しにするような場違いな発言であった。

10 ところで,貴君は,勉強という言葉は,外来語であるところ,外来語は,在来語=土着語(日本語の場合は,和語=大和言葉が,在来語である)に比較し,意味の変容が多いと述べている。
 しかし,外来語であろうが,土着語であろうが,意味の変容の確率に,差異があるという証拠(=学問成果)は,ないと思われる。
 貴君の根拠のない偏見であろう。

11 勉強は,もはや,日本語になっている。
 日本人が使っている勉強という言葉=漢語は,日本語なのである(日本語になっている中国語を漢語と呼ぶ)。
 貴君は,勉強という言葉が,日本語であると思っていないのではないか。
 確かに勉強という言葉は,中国からの外来語=借用語であるが,外来語であるとか,借用語であるとか,必要性もないのに,持ち出すべきではない。
 しかし,貴君は,大学の英語の教師であるところ,英語において,ラテン語経由やギリシア語経由やフランス語経由などの外来語は,元々の英語ではない,元々の英語を学ぶべきであると主張しているから,区別したがるのだろうね。
 貴君の主張は,英語らしい英語は,ラテン語経由など外来の英語ではなく,元々のゲルマン語の土着語の英語であるというのである。
 だから,私が,かつてラテン語など経由の英語の語源の話をしたら,貴君は,私とのやりとりの末,最後には,私に対し,そんな英語の知識習得の態度なら,英語の勉強なんか辞めてしまえなどと,くさ(腐)したんだね。
 しかし,英語らしい英語などという発想をすること自体が,不要な差別だね。ラテン語経由の英語だって,りっぱに,英語らしい英語さ。
 日本語だって,同じさ。大和言葉=和語が,漢語に比べ,美しいなんて主張している人がいるね。差別だね。
 英語も,ラテン語やギリシア語を巧みに使える人が,ゲルマン土着英語の巧みな使い手でもあった。
 漢語も,たとえば,使い方によって,雄渾な美しさがあるさ。大和言葉も,たとえば,使い方によって,たおやかな美しさがある。
 そして,古来,人の心に染み入るような漢語の使い手であってこそ,おなじく,人の心に染み入るような大和言葉が,使えたのさ。
 これは,歴史の示すところである。
 使い方によって,漢語も和語も,美しくも美しくなくもなるさ。この場合,単に美しいとか美しくないというのは,偏見だね。
 たおやかとか,雄渾なとか,少なくとも,ひとこと,形容があるべきだろうね。
 昔の言葉で残っている大和言葉の文章は,漢文の巧みな使い手でもあった。漢文を巧みに使えないで,和語を巧みに使えないのさ。
 貴君の意見は,日本語の中で,漢語より,和語=やまとことばの方が,より日本語らしいという一部の人の見解と,同じようなものだね。
 私の見解は,漢語もやまとことばも,同じ価値を持って,日本語らしいという考えだ。

ヒマではないが,積年,気になっていたことが,やっと書けた。
 
ネットで,「勉強の定義」を見ると,昔は,私の上記投稿は,1位だった。
 今は,約140万件中,3位だ。

 きちんとしたものを書いて良かったと思う。

個別の解答は,以下に補足して記載する。

"Ry0tasan"さんは[url:kb:490]で書きました:
〉〉 Ry0tasanさんへ。こんにちは。
〉〉 主観の新茶です。

〉詳しい解説をありがとうございます。
〉『読書と社会科学』の勉強に関する箇所を読んでみました。

〉〉第1 勉強の定義等

〉〉1 勉強の定義

〉〉 勉強とは、「自らを強いて励まし、楽しみを得るべく、行動すること」である。
〉〉 勉強とは、「楽しみは、少し無理をして努力しても享受すべきこと」をいう、と言って同義である。
〉〉 同じく、勉強とは、「人生、短いのだから、機会を見つけ、無理をしてでも楽しむべし、の意」である。

〉すみませんが部分と全体を混同してらっしゃいませんか。

 混同していない。
 答えは,上記のとおりである。
 
 「すみませんが」「らっしゃいませんか」など,敬語の使い方が,慇懃無礼かつ変である。

〉〉 
〉〉2 内田義彦 「読書と社会科学」

〉〉  私の見解は、上記内田著「読書と社会科学」P117〜P132と同趣旨である。
〉〉  意の足りない点は、上記内田著を参照されたい。
〉〉  上記著書に、漢詩3つが引用されているので、第2に記す。
〉〉  いずれも、勉強の語の由来として代表的な詩である。

〉この本に引用された三つの詩句が勉強の「由来」であると書いてあるのは、
〉何頁ですか?

 この本に,「由来」と書いてあろうがなかろうが,関係がない。
 3つの詩句は,客観的に,勉強という言葉の由来なのであるから。
 再度くまなく読んだわけではないが,おそらく,内田さんの本に,「由来」ということは,書いてないと思う。

〉〉第2 漢詩の出典

〉〉1 白楽天 『東城に春を尋ぬ』

〉〉 老色、日に面に上り、歓情、日に心を去る。
〉〉 今、既に昔に如かず。後、当に今に如かざるべし。
〉〉 
〉〉 今なお、未だ甚だしくは衰えず。事毎に、力、任うべし。
〉〉 花時、なお、出づるを愛し、酒後、なお、よく吟ず。

〉〉 ただ恐る。かくの如き趣も、また日に随って消沈せんことを
〉〉 東城の春、老いんと欲す、勉強して、一たび来尋す。

〉〉 (句読点を付与)

〉『読書と社会科学』よれば、
〉上記の詩における「勉強して」というのは、
〉「ちょっと無理をして」という意味ですよね。(p. 125)

〉〉2 欧陽脩 『酔翁亭の記』

〉〉 造化は、無情、物を選ばず。春色、また至る、深山の中。
〉〉 山桃、渓杏、意思少なきも、自ずから、時節を逐いて、春風に開く。

〉〉 花を看る遊女は、醜さを知らず。古粧、野態、花の紅と争う。
〉〉 人生の行楽、勉強にあり。酒あらば、そむくなかれ、瑠璃の盃に。

〉〉 主人、笑うなかれ、花と娘と。
〉〉 ああ、汝、自ずから、これ、花前の翁なり。

〉〉 (句読点を付し、難読漢字を、適宜、別の漢字またはひらがなに変更)

〉〉 原文

〉〉 豊楽亭小飲  欧陽修

〉〉 造化無情不択物 春色亦到深山中
〉〉 山桃渓杏少意思 自趁時節開春風
〉〉 看花遊女不知醜 古粧野態争花紅
〉〉 人生行楽在勉強 有酒莫負瑠璃鍾  
〉〉 主人勿笑花與女 嗟爾自是花前翁

〉この詩で使われている「勉強」も、
〉『読書と社会科学』によれば、
〉「無理をして」とか「努力」という意味ですね。(p. 125, 127)
〉「怠けもの根性をすてて」という説明もあります。(p. 125)

〉それから、
〉学問をすることではないとも言っていますね。(p. 125)

〉〉3 陶淵明 『雑詩』

〉〉 人生、根帯なし。飄として、陌上の塵の如し。
〉〉 分散して、風を逐いて転ず。これ、已に常の身にあらず。

〉〉 地に落ちて、兄弟となる。何ぞ、必ずしも骨肉の親のみならんや。
〉〉 歓楽を得ては当に楽しみを作すべし。斗酒、比隣を集む。

〉〉 盛年、重ねて来たらず。一日、再び晨になり難し。
〉〉 時に及びては、当に勉励すべし。歳月、人を待たず。

〉〉(句読点を付し、難読漢字を、適宜、別の漢字またはひらがなに変更)

〉この詩で使われている「勉励」も、
〉『読書と社会科学』では、
〉「怠け者根性をすてて」となりますね。(p. 128)

〉〉第3 その他

〉〉1 漢詩における「勉強」等の意味

〉〉 第1の白楽天、勉強とは、「人生は、短いのだから、適当にする行動するという怠け者根性は捨てて、真の楽しみは勉強にあることを再三経験することにある。」という意味である。

〉〉 第2の欧陽脩、勉強とは、「人生の楽しみは、応分に、ほどほどに、などといわず、無理やりにでも享受すべきである。酒に背を向けるな。田舎の娘も、存分、春を楽しみ、今を盛りと咲き誇る花と、美しさを競う。お前も、一個の存在として、人生を楽しむべきだ。」という意味である。一海知義氏・漢学者による。

〉〉 第3の陶淵明、勉励とは、「勉強と同じ意味であり、学問や仕事を一生懸命することだけせよと述べているのではなく、それも大事だが、朝は、二度と来ないの例えどおり、機会を逃さず、自分のやりたい楽しみを尽くせ」という意味である。稲田孝氏・漢学者による。

〉ここでも単語の意味と詩句全体の意味を混同されていますね。

 
 混同していない。この回答は,上記のとおりである。
 ここまで読んで,貴君の混同とは,何を意味するかが,わかった。
 それまで,混同? 何を混同? 
 訳分からんこと言ってるな,という感じであった。

〉〉 同稲田孝氏に依拠すると、勉励は、「努力」と同じ言葉であり、第3の詩は、夫が妻に送った蘇武の漢詩「努力して春華を愛せよ。歓楽の時を忘るることなかれ」と同じ心境であると説明する。

〉ようするに、
〉漢文では「勉強」でも「勉励」でも、
〉「努力」とか「無理をする」という意味なのでしょう。
〉諸橋轍次の『大漢和辞典』も調べてみました。
〉漢文の用例と一緒に示されている定義は、
〉「力を尽くしてつとめる。精を出す」だけでした。(p. 1470)
〉[旧漢字は新漢字に置き換えてあります。]
〉目的が楽しみであれ何であれ、
〉漢文における「勉強」とは、
〉努力することや無理をすることなのでしょう。
〉楽しみを追求するための努力という文脈で「勉強」を使うこともあるというのが、
〉『読書と社会科学』における「勉強」の箇所の主旨だと思います。
〉「勉強」という単語(熟語?)自体に楽しみを追求するという意味が入っているわけではないと思います。

 貴君は,結局,「勉強」という言葉自体に,楽しみを追求するという意味が入っているわけではないと主張したかったのですね。
 だったら,最初から,そう言えば良いのに。

 すみませんが混同していらっしゃるなどというから,何だろうと思って,おかしくなるんだよ。

 他人に対し,「混同している」という反論の言い方は,よっぽどの根拠のある大事なことでない限り,侮辱というか,失礼に当たるんですよ。

〉〉2 一部の場面に変容して使用される現代の勉強の意味

〉〉 「市場で主婦が八百屋に値段の勉強を迫る」「親が子供に学校の勉強をせよと迫る」などの「勉強」には、漢詩の意と同じく、最小限、「強いる」という意味で、由来に忠実であるが、その余の意味は、忠実ではないという指摘は、上記内田著に記載されているとおりである。

〉たしかに漢文における「勉強」からは変質していますね。
〉外来語でこういう変化は良くあることです。

 考えが間違っている,大変問題のある記載です。
 貴君の「外来語でこういう変化は良くあることです。」から見ると,外来語ではない本来語は,意味の変化は,外来語に比較し,多くないとしか,読み取れない。
 本来語も外来語も,意味の変化という点では,どちらが多いかというようなことは,言えないというのが,正しい答えであると思います。

〉〉3 仕事における勉強という言葉の現代の使われ方

〉〉 仕事で、勉強という言葉は、悪い意味で使われることはないし、意識して使われることもないが、自然に「この点を勉強しよう」などという使い方は、当然なされる。
〉〉 つまり、勉強は、自発的に自ら強いて行うという本来の意味で使用している。
〉〉 他から指示される場合も、これを自分の為にもなると置き換えて、自ら強いて行うという本来の意味で使用している。

〉「自律的」を「自発的」に書き換えると、
〉「無理をする」という原義が消えてしまいませんか?

 原義は,消えません。
 貴君の主張は,意味不明です。
 自律と自発の貴君の定義は,おそらく独自であって,私と違うことから,貴君独特の発言が出てくるのでしょう。

〉〉 高校までの学校勉強の意味に使われることはないし、暗記勉強の意味に使われることもない。

〉この箇所はどういう根拠でおっしゃっているのでしょうか?

 「私について」という主体表現を,わざと抜かした文章です。

〉〉 暗記で対処できる分野は、勉強する範囲が狭いといっていいだろう。

〉この点には大賛成です。

 賛同いただけて,ありがとう。
 しかし,貴君と私では,生きてきた分野が違うから,同床異夢,呉越同舟のたぐいである。

〉〉 覚えることも多く、また、覚えただけでは仕事はできず、応用力及び判断力を求められる勉強は、暗記では対処できないが、これが、大学における勉強、さらに、社会における勉強である。

〉この点も同感です。

〉『日本国語大辞典』では、
〉「気がすすまないことを、しかたなしにすること」という定義も載っています。

〉〉4 「お勉強」の意味

〉〉 私は、「お勉強」という言い方は、SSSの投稿を見るまで、知らなかった。
〉〉 この言い方が、いつごろ出現したかは、知らない。

〉〉 しかし、最近、竹中平蔵氏が、「お勉強」という用語を使用しているのを発見したが、同氏は、「お勉強とは、高校までの暗記を主体とする英語・数学等の学校勉強、または社会に出てからの学校勉強に近似する暗記主体の英語等の学校類似勉強」という内容の定義を述べており、「このような『お勉強』も、一部必要である」という見解を開陳されている。

〉「お勉強」と言うと子どもの勉強のような感じがしますが、
〉これについては僕も詳しいことを知りません。
〉70年代に多胡輝先生の本で見た様な記憶はあります。

〉〉 第1の漢詩の訳及び解説は、上記内田著を、第2及び第3の漢詩の訳及び解説は、漢詩一日一首、中国の故事と名言500選、いずれも平凡社を、それぞれ参照した。

〉最後に確認しておきます。
〉「人生の行楽は勉強にあり」という詩句における「勉強」は、
〉「学問をする」という意味ではないと言うわけですね。

 
 この場合の勉強は,ちょっと無理をしてでも楽しむのであって,学問をすることを含む。
 ちょっと無理をしてでも楽しむことであれば,基本的には,何でも良いのであって,学問を除外しない。

 ただ,この時代の勉強は,人民のために良い世の中を実現する施策を考えたり議論したり,また,詩歌を楽しんだりすることである。
 この時代の勉強は,現実には,何でも良かったわけではない。

 また勉強は,現代用語としては,学問をも意味する。
 


▲返答元

▼返答


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