英語学習法:私は 辞書を読む。あなたは ホテル街に行く。それでいいじゃ(あ)ないか

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444. 英語学習法:私は 辞書を読む。あなたは ホテル街に行く。それでいいじゃ(あ)ないか

お名前: 主観の新茶
投稿日: 2008/6/5(22:48)

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 英語学習法:私は 辞書を読む。あなたは ホテル街に行く。それでいいじゃ(あ)ないか

1 (主観の)新茶です。表題は,私が,考えたものではありません。晴山陽一氏の言です。彼の主張は,一言で言えば,各自の自由を尊重する融通無碍な発想に充ちている。

2 晴山陽一氏の近著「英語ベストセラー本の研究」P228ページ:2008年5月31日第1刷発行いわく:私(わたくし)は 辞書を読む。あなたは ホテル 街に行く。それでいい じゃ(あ)ないか。55757調になっています。
英語の勉強法について書いている本を読むくらいなら,英語の本を多読せよ。晴山陽一氏は,そう言いながら,英語勉強法の本を書きました。私も,そう思いながら,この本を手にとって読んでいました。
本屋が閉まる10分前に,本屋に行き,まずは,この本のさわりの部分を読んで,立ち読みして,当たりをつけるつもりが,即座に,買ってしまった。

以下,晴山氏の話。P226ページ以下。
晴山氏は,辞書を読む(引くではない:筆者注)のが楽しい。快感である。何冊も読む。
晴山氏の知人は,お金がないため,外国人のたむろするホテルのロビーに毎日通って,英会話の腕を磨いた(それが,「あなたは ホテル街に行く」の意味:筆者注)。
人によって,一番良い方法は,違うのだ。
晴山氏は,とりあえず「聞きまくり、読みまくる」のがよいと薦める。
しかし,人それぞれだ。
一番良い方法も,あくまで,人によって異なる。
したいことがあれば,自分で決めればよいことだ。
要は,その人にとって,楽しければよい。
ハッピーなら良い。
楽しくない英語に時間を費やすより,ほかのことをした方が,あなたの人生に目に見える進展があって,楽しいかもしれない。
最近,英語教育に関し,「あなたのやり方では,上手くならない」「自分のいうことを聞け。そうしない限り,うまくならない」という主張が多い。
これが,最近,気になる。
俗説も専門家の説も,百花繚乱である。
百花繚乱では,どれも,相対的な主張と考えざるを得ない。
(晴山氏は,その次に,厳しく批判するかと思いきや,穏やかな表現に留めている。そして,専門家は,世間に議論をふっかける前に,専門家同士で,真の学習法を真摯に話し合って議論してほしいと結んでいる。専門家が,自分の信奉者を集め,その内輪で英語の学習を進める前に,専門家同士が,議論すれば,正しいものと正しくないものが,自ずとわかろうと主張するのである。)

3 晴山氏の主張。以下,本全体のまとめである。
晴山氏は,40冊を超える英語本を検討し分析した。それを,1940年代第1次英語ブーム時代,50年代受験英語時代,60年代第2次英語ブーム時代,70年代英語学習法逡巡時代,80年代同混迷時代,90年代英語本ブーム時代,2000年代第3次英語ブーム時代と,10年ごとに2000年代まで,7つの区切りで構成する。なお,1946年2月開始のNHKラジオ英会話,1947年3月の指導要領試案など,本でないものも言及されている。

4 著者晴山氏の本の分析及び晴山氏の主張
(1) 1945年直後の初期の本:日米会話手帳など:は,たとえカタカナ表記するにせよ,現在のカタカナ語とは異なり,実際の発音に近い表記(単語というより文章において)がなされていた。

(2) 初期の文献:指導要領試案は,英語を学ぶ目的として,「英語で考える習慣」「相手の国民を知ること。特に,風俗習慣,日常生活」などと述べている。目的の高尚性,目的なくして,学ぶ効率性なし,得るものより失うものが大きい,が著者の意見。

(3) 初期は,聴くと話すでは,聴く,読むと書くでは,読むの方を優先すべしと説いていた。「聞きまくり,読みまくる」が著者の意見。

(4) 1950年代,体系的な本が出された。現在でも使える本が出された。1950年代の本は,多読の要領で,まず,声に出して,全部続けて読んでしまえば,挫折しないですんだ。全部理解してから進もうとした試みでは,挫折しがちであった。しかし,著者は,挫折した。

(5) 1960年代,たとえば,岩田一男は,(1)英語で考える。(2)直訳はダメ。(3)接辞語,語源を考える。(4)速読大事。(5)後ろ返りしない読み方が前提。などと指摘した。江川泰一郎の文法本の推奨。

(6) 同じく,松本亮は,「英語で考える」「英語の意味は音声である」の2つの信条を守り通した,松本は,実は,「愚直なまでに努力の人」であり,英語について,「日本語と異なり,思考の順序に忠実な言語である」と喝破し,結果として,「日本語以上に英語がうまくなってしまった男」であった。

(7) 1970年代,伊藤和夫は,既に「多読が重要である」と叫ばれていることを前提としながら,読む人によっては,「多くを誤読」しており,それでは,多読の効果なしと警告している。

(8) 現在存在する百花繚乱の学習法は,約30年以上前のこのころまでに全部そろっており,あとは,焼き直しである。

(9) 1970年代,国弘正雄は,頭から英文を読んで理解すること,また,正しい同時通訳は,「英語→イメージ→日本語」と経由し,伊藤和夫は,単に頭から訳していれば良いのではなく,「英語→事柄→日本語」をするのが正しいと説く。大事なのは,「英語→イメージ」「英語→事柄」の部分。つまり,英語を聞いたり読んだりして,イメージ,事柄を,おのずと想起できることが,英語でわかったということである,と説く。

(10) 1980年代,マーク。・ピーターセン「日本人の英語」は,英語で考えることについて,たとえば,「名詞の前に,aをつけるのではない。もしもつけるという言葉を使うのなら,aに名詞をつけるのだ。」と説いた。

(11) 1990年代,英語産業バブルの時代。TOEICは,1979年創設,1990年には,まだ33万人しか受験しない。(私注:私は,浦島太郎,道理で,30年も英語をやっていないと,その間に発生したTOEICの由来や状況を知らないはずだ。)

(12) 2000年以降,話題作満載。「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本]も,その一つである。著者は,この本だけ,唯一批判する。語順が下手な,できの悪い本であると。

(13) 英語の学習にも得手不得手があり,インプット型の人は,多読か,多聴がよい。アウトプット型の人は,文法書なんか読んでいないで,会話の学校の扉を叩くか,外人に会いにホテル街に行こう。

(14) 英語の学習目的がはっきりしない人は,1週間,勉強をやめて,目的を考えよう。1つも思いつかなかったら,他の勉強に切り替えるべきだろう。その方が,幸せなはず。

5 私の感想
(1) 晴山氏の書いている内容は,ほとんど,一々,合点がいく。

(2) 文体,文の流れも,OK。

(3) 彼の物の考え方に,好感を持つ。全く面識はないが。

(4) 1946年2月開始のNHKラジオ英会話は,かの預金封鎖と同じ月だ。

(5) 英語を聴くのは重要,単語ではなく,文章の固まりで聴いて,ひとつひとつの文章の固まりとして,識別することが大事,とわかった。

(6) 「英語→イメージ→日本語」,「英語→事柄→日本語」に関し,それはその通りだろうと思った。

(7) イメージ,事柄とは,(1)感情移入,(2)共感・反発などの感情,(3)1コマ漫画のような映像,(4)映画のような映像などが考えられる。

(8) 英語の小説等を読んで,そのまま自然に映像が描ける人は,日本語に移す必要性がない。また,ラクチンであるから,楽しい。楽しいから,多読が続きやすい,というようなことが考えられる。

(9) 社会科学,自然科学は,映画のように,流れる映像を描く性質のものではない。したがって,イメージ=事柄=映画のような描写がすべて,と考えると,社会科学,自然科学の英語の多読は,困難を伴う可能性がある。

(10) 社会科学の学習は,分野にもよるが,抽象的記述が続く中で,次々と,簡単な例の一コマ的または数コマ的映像を思い浮かべることによって,進んでいくのが通常である。最近の本は,適宜,具体的事例が載せられているので,事例が載せられていない記述も,他の具体的事例を手がかりに,類推して想像することによって,読み進めていくことになる。経済では,歴史的事例や論理的想定事例を,法律では,判例等を,具体的事例とすることが多い。

(11) 映像がでなくても,一こま的イメージ,簡単な絵としての事柄を,次々と転写していけば,英語の多読が比較的容易に続くと思われる。

(12) たとえば,「酒屋が,ビール1ダースを,顧客に配達した。そのうち,1本は,底に不純物が混じっているのを,開扉してみて発見した。顧客は,代金減額請求ができるのみか,取り替えることを請求できるか」という事例では,業者と顧客とビールのやりとり,ビールを開けたときの様子について,簡単な絵を思い浮かべる。「一般に,ものの売買で隠れたる瑕疵が発見された場合は,物が特定しているから,代金減額請求などができるのみであって,取り替え請求はできないが,代替物で商品に隠れたる瑕疵が存在した場合には,顧客が受領したからといって,未だ特定しているとはみなせないから,代金減額請求のみならず,不完全履行として,取り替えることを請求できる。」という抽象的な文章があったら,代替物というところで,上記ビールの事例を思い浮かべる。そして,上の抽象的記述のみが,別の単元であったなら,ビールの事例を思い浮かべる。ビールの事例ではなくても,別の適切な事例で,もちろん良い。買ったのが,電気製品だったら,どう考えるべきか。何が,修理だけ要求できて,何が,取り替え請求できるか。電気製品として,何を思い浮かべるかで,その人の法律的センスが決まる。いずれにしても,抽象的記述を具体的事例に焼き直して読まなければならない。私は,学生のとき,そして,実務に入り,社会科学がわかる人とわからない人の様子を見ることができた。抽象的記述を読んで,トンチンカンなことを考えるのが,一番社会科学を理解できない理由だ。全然別な映像や絵を考えてしまうのである。また,不正義な人,たとえば,どんな製品でも,新しいのと取り替えれさせれば良いのだと考え,そもそも,当該社会科学の記述に反感を持って,その先に思考が進まない人は,論理が理解できない。そういう不正義な人は,ごく少数存在する。しかし,普通の人は,不正義の誘惑と,正義の思考は,両立するので,問題はない。英語で,社会科学を学習するときも,同じように,想定される適切な事例を自分で作りながら,読む。これが,社会科学の英語を読む方法だろうと思われる。

(13) 晴山氏が好感を持っているのは,江川泰一郎,松本亮,国弘国雄,伊藤和夫,マーク・ピーターセンといったところだ。また,理科系出身の経済学者野口悠紀夫氏に,恩を感じている。

(14) 私は,本を滅多に,すぐには捨てないが,100万語開始する前に,英語の本をたくさん読もうと考えて,その中に,「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本]をも買ったが,これは,英語じゃないと考えて,唯一その本のみ,早々に捨ててしまった。その考えが,まんざら間違っていないとわかって,安心した。邦語の文章についても,一応読めるが,下手な日本語であって,読むに耐えないというものがあるが,このビッグ・ファット本も,そういう本であったわけだ。今思うと,私は,30年前,英語の読解とともに,定評ある短文を暗記するという作業を行っていた。その経験が,何となく,この英語,おかしいぞ,とわかったのだと思う(と思いたい)。この英語は,格調あるのかないのか,副詞や形容詞の位置が適切なのかおかしいのか,語順は流暢であるか,語順が間違っているとまでいえないが不自然ではないのか,読み返さなくても内容を把握できるような流れのある内容の文章か否か,その感覚が,もし,英語でわかるのなら,大事にしなければならないと思う。

(15) 私は,英語の学習法の本をかなり読んだと思っていたが,一部しか読んでいないとわかった。ただし、ハウツーの学習法の本を読む熱は,もう上がらないだろう。

(16) 1970年代から20年余り,英語を学習させるための外部環境は,必ずしも良好でなかったことがわかった。私の内的環境ばかりではなかったのだ。

(17) CD,インターネットにより,英語を多聴するのに,少なくとも,ここ10年以上,良好な環境が整備されつつある。

(18) 晴山氏は,英語を学ぶ目的がなければ,意味がないという。漫然と英語を学ぶならば,その間,別のことができなかったという機会損失,opportunity costが大きいというのである。ただし,この点,晴山氏は,英語を手段と考えているのであるから,英語は手段ではなく,たとえば,社会人になって,英語を再び学ぶこと自体が,idetityの確立のため等の目的である人には,晴山氏の意見に賛同することができないであろう。

(19) 自分と同じ傾向にある人が,明らかに自分と同じ道を歩き始めた初期の段階を歩いているとわかる場合には,アドバイスは適切である可能性が高いが,自分と同じ傾向であるかどうか不明な人,明らかに違う人に対するアドバイスは,適切でない可能性が少なくない、と思われる。

(20) 学習の方法,読書の内容等は,向き不向き,好き嫌い等があって,それは,自然に発生する感情・心情・意見等であるから,その感情等を,一般的抽象的に表明等するのは,別段かまわないと思われるが(たとえば,児童書は,読む気になれない等),個別的な個々人に対し,自己の向き不向き,好き嫌い等を押しつける等するのは,避けるべきである。ただし,相手が,自己の方向を占う等のため,アドバイスを求める等した場合は,この限りではない。ここに,「等」と記した範囲が,悩ましい場合があろう。

(21) SSSが,正当な理由がない極めて例外的な場合を除外し,個人を中傷しない,批判しないという普遍的な原理を採用するだけではなく,相手を誉める,賞賛する,許容する,自主性を尊重するという積極的な原理を採用しているのは,多読を推進する上で,有益であるとともに,誉められれば楽しくなり,けなされれば不愉快になり,その意欲に影響するという個人の心理に適合する。

6 私は,英語においても,以下,5に記述したような漢字の内容に興味を持つし,楽しく,おもしろいと思うのである。もちろん,興味を持つかどうかは,その日の身体及び精神の調子にもよるし,その年,その季節の波がある。その波は,あらかじめ,予測できる性質のものとは限らない。

7 侖は,木簡などの編冊を丸く巻いたもの(白川静;字統旧版889)。私は,この記載で,絵としては,杜甫の故事を思い出す。つまり,詩聖「杜甫」が,家族とともに,漢詩を書いた木簡の束を馬車に積載し,流浪の旅をしている,一幅の絵を想う。ムービーの連続はできない,単に一幅の絵である。侖声は,すべて順序次第のある一連のもの(白川静;字統)。ここの記載から,輪という漢字は,馬車の連なる様子と,その車輪が,続いている様を思い浮かべる。淪という漢字は,さざ波が立つ様を思い浮かべる。私は,この淪という漢字で,日本の文様でよくある,「青海波」の図柄を思い浮かべる。次に,山が連なっている様。これは,何かというと,崘または崙。昔,孫悟空で,また,中国史で,崑崙の山,出てきたなあ。高い山が連なっている。連山,屹立として,そびえ立つ,などとあったね。エスペラントを含め,語学の本を多数出している白水社は,「白水,崑崙の山に出ず」,に由来するそうだ。これは,今回,インターネットを見ていて,初めて知った。おそらく,忘れないだろう。そのほかの字は,超特急で説明。「王の言,綸言,汗のごとし」とは,偉い人は,自分の言った言葉を取り消すべきではない,という意で使う有名な言葉。最近,政治家を批評する新聞にも出ていた。汗は,元の体に戻せないように,言葉も,戻せない。覆水盆に返らず,と同じ。倫,論も,このならいで,自分なりに,せいぜい、一こま漫画か、一幅の絵を描く。映画のように,流れる絵を描くのには,ちょっと,情報が足りない。私は、もともと,本を読んで,流れるような情景を描くのは,不得意であるというより,できない。しかも,絵といっても,写真のようではなく,水墨画のような程度でしか,描けない。または,漫画の数コマ程度。漢字を見るのに,このようにすると,記憶するという作業は,必要ではない。自然に覚えられる。しかも,漢字を文字で覚えるのではなく,あくまで用法として覚える。結果として,文章を作るときに使える,ということになる。英語も,同じではないか,と考える。否,同じようにしたいものだ,と考える。
 以上の漢字や用法の説明は,私なりの記憶と連想を,現在の私の体調と心情に基づいて記載したにすぎないから,次に書けば,少しは,別の文章になる。読んだ方は、自分で,原典その他の定評ある本を見て,咀嚼されたい。

追記 以下の文章を書くうちに,
1 上に書いた野口悠紀夫氏の近著「戦後日本経済史」に本屋で目を留め(購入),ふと脇に,「日本語の脳に主語はいらない」今年4月刊を発見した。もしやと思い,開いてみると,やはり英語脳と日本語脳の脳に電流の走る状況の相違等に,かなりのページが割かれていた。また,かつて,本質的に日本語には主語がいらないと説いた人は,未だに学会では,異端扱いであるのは,ある程度周知のところであると思われるが,その人の説の適否についても,触れられており,興味深い。まだ,未購入。

2 ハリポタから伝記,ポルノまで,すべてを渉猟し,やんわりと現在の日本の英文学の扱いを批判するという触れ込みの「英文学の挑戦」富山太佳夫氏:今年5月刊は,新聞広告で知り,本屋で立ち読みしたが,活字が薄いこと(目をその字の部分に集中しないと見えないので,物理的に普通の速度で読むことができない)と,どこにも著者の包括的主張を要約した文章が見あたらないように見えることから,どんな主張か,余りわからぬ。読んでおもしろいか,読む価値があるか,わからぬ。そこで,方向転換して,fionaさんから薦められた,岩波新書エスペラント2007年を再度見ようと,その棚に行ったら,また,富山太佳夫氏の著書:岩波新書2006年が目に入った。前回は,目に入らなかったのに。インターネットで見ると,著名な人でした。知らなかった。まだ,いずれも未購入。
以  上


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