「文字」と「音」の間に横たわる「深淵」、あるいは「私のピアノ挫折体験」(苦笑)

[掲示板: 〈過去ログ〉音のこと何でも -- 最新メッセージID: 3373 // 時刻: 2024/5/19(07:02)]

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2090. 「文字」と「音」の間に横たわる「深淵」、あるいは「私のピアノ挫折体験」(苦笑)

お名前: 慈幻 http://mayavin.txt-nifty.com/labotadoku/
投稿日: 2005/6/28(00:20)

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どうも慈幻です。

「脳内音読」と「音読」の間を公開したところ、様々な方から色々な意見を頂き、それらに返事を書いている内に、私自身の雑多な記憶が過ぎりました。

 そして、小学生の頃、ピアノ教室に通い、半年で挫折した記憶が怒涛のように蘇ってきました。

 ここでようやくにして、この時のトラウマが、シャドウイングに対する私の不満の遠因だということが納得できました。

 というのも、私がピアノに挫折した体験と、今回の「脳内音読」や「音読」に纏わる議論は、私が思ってた以上に根深い関係があると気がついたからです。

 つまり、

●私がピアノに挫折した理由

1 バイエルなどの退屈な反復練習に耐えられなかった。
2 「楽譜」を読めるようになれなかった。
3 「絶対音感」を獲得できなかった。
4 「フレーズを聴き取る能力」が存在することすら分からなかった。

●多くの人が英語に挫折する理由

1 単語・熟語の意味や、文法事項などの暗記作業に耐えられない。
2 「文章」を読めるようになれない。
3 「英語の音」そのものを聞き取る能力を獲得できない。
4 「英文」の「パターン」が存在することすら分からない。

という風に、全く同じ構造が存在するということです。

 では、順番に説明して行きましょう。

 まず、1についてですが、「苦行」と「強制」は「学習の敵」です。これはもう断言して良いと思います。

 私がピアノを習いたいと思ったのは、純粋に「面白そう」と感じたからです。しかし、やらされたのは、ただひたすら「意味の理解できない指の訓練」としか思えない「バイエルの練習」でした。

 勿論、今なら、きちんとした演奏をするためには、基礎的な技術が必要であり、そのためには退屈な練習が必要だと、「頭では」理解できます。

 しかし、それならそれで、私の適性に合わせて、合間に私が楽しいと思える曲を混ぜるとか、当時好きだったアニメや特撮の主題歌を練習させてくれるとかの「配慮」があっても良かったと思います。

 そして、これは通常の「英語学習」でも全く同じでしょう。

 単語の意味、熟語やイディオム、文法の知識。私には、これらは「語学学習」というよりは、「暗号解読実習」をやらされているとしか思えませんでした。

 次に、2についてですが、「楽譜」と「音楽」との関係は、「文字」と「音声」の関係にそのまま当てはまります。

 当時、私は「楽譜」が全く読めませんでした。一応、学校の音楽の授業で習ったので、「黒い丸」みたいなのがそれぞれの「音」に対応することは理解していました。

 しかし、「個々の単語の意味が分かること」と「文章の意味が分かること」が全く「別物」であるように、「音符を見て何の音か分かること」と、「楽譜から『メロディー』を読み取ることが出来ること」とは、「天と地ほどの違い」がありました。

 そして、当時の私の自己分析力・語彙力では、その「違い」が何なのかを理解することは不可能でした。まして、それを適切な形で先生に伝えることができよう筈もありません。

 さらに悪いことには、私の同級生達は、皆、苦もなく「楽譜」が読めるようになりました。私がそのピアノ教室で「落ちこぼれ」になるのにそれほど時間はかかりませんでした(苦笑)

 さて、3についてですが、「絶対音感」と「相対音感」の関係は、「英語そのものの音を聞き取れること」と「脳内でカタカナに変換した英語モドキの音しか理解できないこと」に対応します。

 「絶対音感」とは、あらゆる「音」を、人間の可聴域全てに広がる一枚の「楽譜」の何処にある音なのかを聞き取れる能力です。

 「相対音感」とは、ある曲を聴いたとき、そのメロディーにおいて、その「音」が「ドレミ」の何に相当するのかを理解する能力です。

 具体例を挙げましょう。

 例えば、「絶対音感」の持ち主であれば、同じメロディーだが、違う楽器の「音」を聴いたとき、それがヘ長調の「ド」なのか、二短調の「ド」なのか、はっきりと区別できます。その人にとって、二つの「音」は、全くの「別物」です。

 これに対して、「相対音感」の持ち主は、それがあるメロディーの「ド」に相当することは理解できても、それがヘ長調の「ド」なのか、二短調の「ド」なのかを言うことはできません。

 「Dog」という英語の音声が、「ドッグ」という「カタカナ」に「脳内変換」されるように、「ヘ長調の『ド』」も、「二短調の『ド』」も同じ「ド」」に「脳内変換」されてしまうからです。

 そして、私が通っていた教室では、「絶対音感」は「音楽を学ぶ必須技能」となっていました。

 「心配しなくても、その内できるようになるかもしれないよ。当面は、『相対音感』でも構わないから、まずは音楽を楽しもう」

などとは、誰も言ってはくれませんでした。

 私の同級生達の目が「軽蔑の眼差し」に変わるのに、そんなに大した時間は必要はありませんでした(苦笑)

 最後に4についてですが、これは「曲」というものを一つの「全体」と考えた場合、その「構成要素」となるものが「フレーズ」です。

 基本的に、「曲」は複数の「フレーズ」の組み合わせで構成されており、この「フレーズ」=「音の連なり」を一つの「パターン」として理解できなければ、「曲」の構造を理解することは不可能です。

 これは、「個々の文章」を理解できても、「ストーリー」の「構成要素」である「シーン」を「パターン」として理解できなければ、その「ストーリー」の「筋」を理解できないことと全く同じです。

 そして、聴覚が優れている訳でも、音楽の才能があった訳でもない私には、そもそも、「曲」に「フレーズ」というものがあること、「フレーズを聴き取る能力」があることすら理解できませんでした。

 (というか、「音楽理論」の本を読んで、ようやくおぼろげに理解できるようになっただけで、未だに「フレーズ」を聴き取ることは不可能です(爆))

 結局、我慢して通えたのは半年で、私はピアノを習うことを挫折しました。

 今、こうして思い返してみると、「面白そう」という理由でピアノをはじめたにも関わらず、「苦痛」でしかない「練習」と、適性を無視し、配慮を欠いた「指導」が原因で挫折した私の経験は、多くの「英語挫折者」の経験と全く同じ構造を持っています。

 もし、必要な基礎技術を身につけさせるために、もっと「楽しめる工夫」を凝らした練習方法があったら?

 もし、「楽譜」を読む能力と「音楽」を聴き取る能力とは全く別の能力であり、それらを対応させるには色々と工夫が居るということを誰かが優しく説明してくれていたとしたら?

 もし、「絶対音感」を持ってなくても音楽を楽しむことは可能であり、地道に訓練を続ければ身につける可能性はゼロではないことを、私が理解できていたとしたら?

 もし、「曲」には「フレーズ」というものが存在すること、それらを「聴き取る能力」を身につけるには大量の聴く訓練が必要であることを、誰かが根気よく教えてくれていたとしたら?

 勿論、これらは無意味な仮定です。しかし、それらが重なることで、私は「音楽」にささやかな「トラウマ」を抱えることとなりました。

 そして、多くの英語挫折者も、同じような理由で、だが、もっと深刻な「トラウマ」を抱えているのではないでしょうか?

 多読に出会うことで、私は「ながら聞き」や「LR」や「多聴」や「シャドウイング」というものを知り、それらの実践を通して、私は色々なことを考えるようになりました。

 ある意味、このようなトラウマを告白するのは非常に恥ずかしいものです。けれども、私の挫折体験は、英語の挫折体験を考える上で、非常に貴重な示唆を与えるのではないかと思います。

 もし、この論考が、皆さんの「挫折体験」を振り返り、克服する一助となれば幸いです(笑)

 以上、要件のみですが、今回はこれで失礼します。


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