【凶器攻撃】 「愛に関する書簡」:「愛は陽炎」

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415. 【凶器攻撃】 「愛に関する書簡」:「愛は陽炎」

お名前: 道化師
投稿日: 2003/12/10(02:44)

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こんばんは。乱入を阻止された後は凶器攻撃のタイガー・ジェット・道化シンです。

"マリコ"さんは[url:kb:403]で書きました:

〉ただ、「絡み合い」というのがね。
〉道化師さんの深層心理があからさまで。
〉わたしなら、「融けあって」のほうが好き。

深層心理ではなく、表層心理です。ハッキリ意図していました。

〉道化師さんの語っているのは、情熱的恋愛のことでしょう。
〉情熱的恋愛ということなら、賛成です。
〉同じ意見です。

あれも愛、これも愛、みんな愛、きっと愛・・・by松阪慶子
という歌もありますが、愛を博物学的に種類分けしていくのは好みません。
「情熱的恋愛」「静かな愛」「大人の愛」「夫婦愛」「親子愛」「チーム愛」・・・
みんなひとつの同じ心的作用、過程だと思うのです。
ただ、「情熱の無い」愛が存在し得るのかは知りませんが。
(「チーム愛」なんて言うのは存在しません。断言します。>原元巨人軍監督)

〉愛とはたった一連の文章で語り尽くせる物ではないと思います。
〉対象によって、示せる愛の形は違うでしょう。
〉ある人とのかかわりのなかで、その人の「愛」の定義は生まれてくるものだと思います。
〉だから、それぞれの人が現在かかわっている人すべてに対して、それぞれの「愛」の定義がでてくるのではないでしょうか。
〉わたしが道化師さんに感じる「愛」はこういうもの、というように。

私の稚拙なラブレターの一節で比喩したとおり、
愛とは容器に注ぎ込まれる水のような状態だと思います。
容器の形によって、形は変わりますが、水は変わらない。
語り尽くせないのは、地上に幾億とある容器の形であって、
愛ではないと思うのです。

"バナナ"さんは[url:kb:411]で書きました:

〉道化師さんの文章はとても長く、いろいろな話がはいってるんで

すみません。くどい性格なもので・・・。

〉ずばっと私の見解を言うと

〉DKCさんと僕の見解はとても近い。1文1文を取るとね。
〉違うところは、一つしかないかなと思います。

どこ?

〉DKCさんは、「愛は幻」派なんですね。
〉ただですね、幻といえばこの世にあるものほとんどのものが幻です。

人間五十年・・・夢幻のごとくなり by織田信長(?)

〉親子という関係、お金という観念、他にもいろいろあるでしょう。
〉古くはプラトンもそういいましたし(言ってたっけな?)、ちょっと新らし
〉めでは、岸田秀の「唯幻論」などもありました。

これは面白く読みました。

〉そうそう共同幻想論などというものもあります。

こっちは、難しくて何がなにやら解らなかった。

〉ただですね、「幻」っていっちゃうとそれはそうなんですけど
〉生きる元気が吸い取られる感じがするんですよね。

じゃあ「夢」と言い換えたら、良いでしょうか?

〉だれかも言っていました「それをいっちゃあ、おしめーよ」とね。

そうなんです。「おしめーよ」にしたいのです。
今、巷では「愛」が溢れかえっています。あっちでも愛、こっちでも愛。
昨日までオムツをしてたようなガキが「愛を語らい」
(もっとも、ロミオとジュリエットもその類ですが)
貴乃花は簡単に「宮沢りえさんには愛が無くなった」とほざくし、
原辰徳は「巨人に愛を」とかのたまうし。
「愛」がインフレを起こして、紙ッぺらになってしまっている。
そんな愛なら無くせるものなら、
なくなってしまった方が良いと言うのが本音です。

〉「愛は幻」などと言っていても、どっかあきらめみたいなのが
〉感じられる。そういうのはメメしくないかい?っていうのが
〉あります。

そうなんです。メメしいんです。
愛なんて存在しないと思っていながら、
それでも愛の周りで七転八倒してなきゃならない自分が恨めしい。

〉だからここは「愛は幻?」程度に押さえておいて、
〉「神」と同じようにあるものとして扱い、
〉それを規範として生きるという姿勢のほうがよかーないかい?
〉というのが、私の気持ちなんですね。

ここなんです。問題は。
今、愛は世間に溢れている。そして「愛のイデオロギー」と化している。
男女の付き合いの中に「愛」なければいけないし、
親子の間に「愛」、野球チームの中に「愛」がなければいけない。
愛がインフレを起こしているのに、殊更重要な価値あるもののように言い立てる。
ただ、互いに気に入った男女が○○○したいだけじゃダメなのか?
親が子を慈しみたいだけじゃダメなのか?
このチームで勝ちたいだけじゃダメなのか?
インフレを起こした「愛」が、その実態から離れて一人歩きしてしまって、
肥大化空洞化している。
愛の実態は「○○○したい」「慈しみたい」「勝ちたい」と言う、
動作であり、過程であり、作用です。
実体のある「モノ」ではなく、時と共に移りゆく「コト」です。
(木村敏「モノからコトへ」講談社現代新書・参照)
マリコさんの部で書いた、容器に注がれる水の波立つ流れそのものです。
水流を確かめたいと凍らせても、それは容器の形の水に過ぎません。
それと同じで「愛」を確かめようとしても、それは「幻」になってしまうと思うのです。
男女が相手と○○○したいから、○○○をするのであり、
親が子を慈しみたいから、慈しむのであり、
チームが勝ちたいから勝つのです。
それを後から、総称して「愛」と呼ぶのだと思うのです。
決して先に「愛」が在るから、○○○する訳でも、慈しむ訳でも、勝つ訳でもないと思うのです。

はぁ、またくどくど長くなってしまいました。

ではでは。


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