Re: 外国語

[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2020/10/1(14:10)]

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11403. Re: 外国語

お名前: みちる
投稿日: 2004/4/6(15:51)

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ぷぷさん、はまこさん、こんにちは。

今回と前回の投稿、とても興味深く読ませていただきました。

特にこのお話

〉その人いわく、核になる言語が自分にはないのだそうです。
〉日本語も英語もドイツ語も等距離。自分からの距離が同じ。
〉そうすると例えば、ひとりで考え事をしたりしているとき、ふと
〉気づくと、日本語でも英語でもドイツ語でも考えていないような
〉場所にいるような気がすることがあって、それは言葉で表せない
〉ような「恐怖」なのだそうです。

「母語」について考えさせられますねー。

〉小さい頃は特に、お母さんがおもに話しかける言葉が、その子どもの
〉血肉になり、つまりは母語になる可能性が高いです。
〉そうやって意識的に、子どもの「核」になる言語を親が決定する
〉ことが、子どもの情緒を安定させるというのです。
〉その場合「無意識」で一番強く子どもとつながっている母親の言語で
〉あるべきだとも聞きました。お父さんじゃダメらしいです(笑)

この辺も興味深いですね。お父さんじゃ駄目なのか・・・。

この所、ずっと「言葉」関係の和書を読みつづけているのですが、
そのどれよりもインパクトがあったなぁと思います。

この辺の問題は、教育界では語られていないかもしれませんが、
「文学」では、結構テーマとしてあげられているように思います。
「言葉」「言語」との格闘。まさに文学的です。

(以下、引用も含めて、他の所に書いたコピペがほとんどです。
二度読んだ方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。)

小説でご紹介してもいいのですが、ここではいくつかのエッセイから
文章を引いてみたいと思います。
(どちらも芥川賞作家です。偶然。。)

多和田葉子「エクソフォニー」より。
「(略)ドイツに渡ったばかりの頃は正直言って母語以外でものを書くことなど
ありえないと思っていた。しかし、五年もたつと、ドイツ語でも小説が書きたく
なった。これは、抑えても抑えきれない衝動で、たとえ書くなと言われても
書かずにはいられない。外国語に浸って数年暮らしていると、新しい言語体系を
受け入れるために、母語の基礎となっている理論の一部が崩れ、変形し、再生し、
新しい自分が生まれてくる。作家の中には、『元の自分』が壊れた移民状態を
極度に嫌う人もいる。たとえば、母語の中だけに留まり続ければ『夕涼み』など
という日本語を聞いて、そこに古風な美しさを感じることもあるだろうが、一度
そこから離れてしまえば、この『use済み(ユウスズミ)』という使用済みの言葉
の涼しさを無条件に信じることはできなくなっている。言葉がぼこぼこと浮き
立って見えてくる。切れ目ではないところで切れ、さりげなく美しいものは一度は
壊れてしまうかもしれないし、もう自然な素振りはできなくなるかもしれない。
駄洒落王国や、へ理屈町の住人として同国人から馬鹿にされるかもしれない。でも、
母語の自然さを信じているようでは言葉と真剣に関わっていることにはならないし、
現代文学は成り立たない。」

このエッセイ集は読んでいてはまこさんを思い出す場面が何カ所もありました。
多言で夢を見る(しかも知らない言語での夢を見る)という話もありました。
また、アフリカで11カ国語の公用語によるテレビ放送の話なども面白かった。
ここでは、(作家としての)言語の崩壊と、新しい言語体系の習得の話の部分
引用いたしました。
(この本は、酒井先生がお時間ができたら読んで欲しいなぁ・・・。)

もう一編。
李良枝「李良枝全集」より。
講演録「私にとっての母国と日本」
「私はまるで韓国語の海にもひとしい国文学科での留学生活を通じて、人間に
とっての言語、言い換えるなら人間における母国語と、さらに母語とは何だろう
かという問題を、自分自身の存在つまり実存の問題と直結する深刻な問題と考える
ようになり、そんな自分を韓国語の海へ投げ出されて漂流する、遭難者のごとく
見なすしかない日々を過ごしたともいえるでしょう。
(略)
 まことに、母語つまり幼かった頃の、母親から聞いて耳にこびりついてしまった
言葉というものは、まるで暴力的といえるくらい人間の思考を支配し存在を左右
することになるという事実を、逆説的ですが母国へ来て、とりわけ母国語の海にも
ひとしい国文学科へ入って実感させられたのです。
 名分上もしくは観念の上では、韓国語は母国語であり、私のアイデンティティー
の中心に位置すべき言葉であることに間違いはありません。けれども実際には、
母国語である韓国語はどこまでも外国語であり、異国の言葉としてしか受け入れる
ことができなかったのです。
 とりわけ言葉というものは、それを使用する人間の存在のすべてと深い関わりが
ある、言い換えるなら感受性のすべての産物であると同時に、感受性のすべてを
支配し、拘束する、まるで生きている生命体のようなものですから、日常的な暮らし
ぶりはただちに言語生活に影響を及ぼすしかないのです。生活週間の一つ一つに
適応していけないとき、あるいは拒絶反応を感じたときや感情を逆撫でされたとき
など、私は幾度となく言葉そのものを失ってしまい、言語それ自体を否定する自閉症
のような状態に落ちこむことさえありました。」

こちらの方は、母語と母国語が違うという状態なので、アイデンティティーも絡んで、
もっと深刻な状態だったともいえるのではないでしょうか?

私の中では、二つの言語の狭間で、真剣に文学に向かっているというとこのお二人を
真っ先に思い浮かべてしまうのですが、他にもこのようなことをテーマに小説、
あるいはエッセイを書かれている人というのは、結構いるように思います。

個人的にはどう思うかということについてもちょっと書いておきます。

母語以外の言語を自分の中に取り入れることというのは、自分にとっての異物を
取り入れることなのだと思っています。
自分の中に構築された言語や文化という秩序がある。そこに、そこには属さない
異物がはいってくる。
漸次的にうまく取り入れていけば、それほどの拒絶反応はおきにくい。
もともとの、言語や文化の構築が硬く崩れにくいものであれば、新しい言語に
対する拒絶感は高くなる。文化が侵略されるような恐怖感を伴う場合もある。
あまり慣れていないところに、大量に取り込むとそれまでに構築されていた
ものが、一時的にあるいは一部分崩壊してしまうことがある。

母語以外の言語を取り入れたとき、二つの言語秩序は、まったくの別物として独立
しては存在しないのではないかと思うのです。つまり、母語以外の言語を大きく
取り入れた人は、母語だけでの生活のようには、母語をとらえられなくなって
しまうのではないかと思うのです。これは、ちょっと恐いようにも感じますが、
私は、二つの言語の間で、「言語」の格闘をしたと思われるいろいろな人の
文章が好きだなぁと思っています。(母語だけの人にも好きな人はいますが。)
やっぱり、母語から離れたところに位置し、母語に向かい合ったことのある人の
言葉には、母語だけの生活では見られないものがあるような気がします。

私も、ほぼゼロの状態だったのに、急激に多読をして、一時期日本語が少し、
不自由になりました。(英語では感じなかったのですが。)

そういうこともあって、こういう話いろいろ聞いてみたいですし、それが
色々な人の役に立つとは思うのですが、これは、言語だけの問題ではない
かなりデリケートなことだと思うので、できれば、掲示板よりもアンケート
フォームなどで、色々な例や対処法?を集めて、上手い形で公開してもらって、
意見を交わしあうなど、慎重にすすめられた方がいいような気がするのですが。
いかがでしょう?>酒井先生、他の皆さま。

長くなりましたが、この辺で失礼いたします。


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