Re: 日本語と英語の距離

[掲示板: めざせ100万語! -- 最新メッセージID: 25675 // 時刻: 2024/5/19(13:08)]

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11413. Re: 日本語と英語の距離

お名前: jun http://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/
投稿日: 2003/2/23(12:27)

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杏樹さん、詳細なお返事どうもありがとうございます。

 お返事から拝察するところ、語学・宗教学などの専門家でいらっしゃるのでしょうか? あるいは比較文化学といった方面でしょうか?
 専門家にいろいろと教えていただける機会がこういう場で得られるということは本当にありがたいことです。
 素人の疑問をもう少し書き連ねてみたいと思います。もう少しお付き合い願えれば幸いです。
 あまりにも初歩的な疑問で、そんなものは成書にあたれというのものあるだろうと思います。その時は無視してください。

〉ラテン語はamoと言えば一人称ですよね。二人称や三人称、複数になると変化しますよね。ということは、主語は省略したとしても、実際上の主語が何であるかを特定しなければ動詞が使えないわけです。日本語では主語がなければその場の状況や前後のつながりによって意味を判断することになります。しかしラテン語は動詞を見れば主語は一目瞭然です。一目瞭然なので「わかりきったことは省略する」のです。そこが日本語とラテン語の違いです。

 ラテン語で cogito といった場合、これは英語では I think だと思いますが、ラテン語において一人称単数の主語が省略されているのではなくて、cogoto という語がそのまま I think と等価であるということではないでしょうか? 動詞の活用形を見れば何が主語かわかるから、主語が省略されるのであれば、ドイツ語やフランス語でも省略の方向にいくのではないでしょうか? Ich や Je がそれでも必要な語意識というのがあって、それは人称代名詞の主語が省略され得る言語の語意識とは何か決定的な違いがあるように思うのですが。
 人称代名詞の主語がなくてもいいのか、それが必須であるかが一神教と関係があるのはないかという思いつきみたいなことを最初に書いて、どうもこれは見当違いであることはよくわかってみました(^^)。

〉インド・ヨーロッパ語が世界的に広く使われており、文法体系や言語同士の関係も研究が進んでいるのは確かです。そしてインド・ヨーロッパ語を基準にすると日本語があいまいに見えるという側面も確かにあります。
〉しかしやはりインド・ヨーロッパ語は理論的に構築された言葉であるのに対し、アジアの言葉は情緒的な面が多いように思います。例えば主語がない、ということについては主体がはっきりしないということになり、つまり上で述べたように前後の意味や状況を考えて意味を取る必要があるわけです。

 つまりアジアの言語は状況依存的・文脈依存的ということであると思うのですが、これは情緒的ということとは違うように思います。状況や文脈が理解される場においては明晰な言語でありうるのではないでしょうか? 状況や文脈がはっきりすれば、主体をはっきりさせる必要がない、主体がはっきりしなくても間違って理解されるおそれはない、ということではないでしょうか?
 インド・ヨーロッパの言語というのは言語自体で自己完結しなくてはいけないという要請が強いように思います。ですから「すべてのクレタ人は嘘つきであると、あるクレタ人が言った」というような文章が大問題になってしまうわけです。でもアジアの言語観からいったら、こんな文章は問題にもならないのだと思います。このクレタ人がどういう状況でそれをいったかが分からなければ、この言葉だけとりあげて議論することは無意味である、ということで終りではないでしょうか?

>私はアジアの言葉をたくさん知っている訳ではありませんが、中国語を習い始めた時そういった感覚を持ちました。英語よりも「雰囲気」で解釈するような面が多いと思いました。また、インドネシア語をかじった時は言葉の構造や意味がヨーロッパ語のように明確ではなく、その場の雰囲気やニュアンスを重視するのでかえって習得するのが難しいように思いました。「接頭語」などというものがあって、どういう時に付けるのかというと、いくら説明を読んでもはっきりしません。使いながら感覚で覚えるしかないようでした。

 でも英語でもどういう時にthe がついて、どういう時にはつかないかなどというのは、最終的には習慣でそうなっているとしかいいようがない部分があって、使いながら覚えていくしかない部分も多いのではないでしょうか? これはどの言語でも同じだと思うのですが・・。

〉「日本人は英語が苦手」というのは、単に学校で習った英語が使えないだけで、英語だけが特に難しい外国語というわけではないのです。100年以上前はフランス語が世界語の地位を占めていました。もしフランス語が世界語のままだったら、中学一年になったとたん不規則動詞や規則動詞の活用を丸暗記させられることになり、名詞が出てくるたびに男性名詞が女性名詞か覚えなくてはならず、もっと落ちこぼれが増えていたかもしれません。そうすると「日本人はフランス語が苦手」と言われていたでしょう。英語はヨーロッパ語の中では単純化されて入りやすい方だと思います。ただ、英語で困るのは発音でしょう。英語の発音は難しいですから。おまけにつづりと発音が一致しないのでつづりや読み方を覚えるのが大変。

 わたくしは日本人が英語が苦手であるのは、単に文法体系が日本語が孤立しているからというレベルの問題ではなく、日本語が主語がなくても成立する言語であるのに対して、英語は主語がなければ絶対に成立しない言語であるという、言語が規定する文化構造の違いそのものに由来するのではないかと考えています。

 片岡義男氏が「日本語の外へ」(筑摩書房)のなかの一文で、あるアメリカのテレビの討論番組にアメリカとの通商交渉の日本代表のような人がでて(とりあえず日本人としては英語ができるひと)しゃべった英語をとりあげています。その人の英語は英語の正用法にかなっていないものだったといいます。以下若干引用。

 「正用法とは、たとえば、主語のとりかただ。主語を立てて語り始めたなら、そこには論理への責任がともなう。主語はその文章ぜんたいにとっての論理の出発点であり、責任の帰属点でもある。主語は動詞を特定する。動詞はアクションだ。アクションとは責任のことだ。・・・。いったん主語を選んだなら、それにふさわしい動詞の働きによって、論理的な結末にたどり着かなくてはいけない。・・・。彼ひとりに限定することなく、彼のような人が英語でしゃべっていくのを聞いていて、いたたまれなくなるほどのきまりの悪さを覚える理由は、さらにいくつもある。そのなかで最大のものは、センテンスのなかばあたりで主語を忘れてしまっている気配がある、という恐るべき事実だ。・・・。主語を忘れているからには、動詞も彼らは忘れている。・・・。(しかしかれらはそんなことに)最初からまったく頓着していない。」

 かれのしゃべっていることは、発想はまったく日本語による発想で、それを英語になおしただけ、なんだというのです。
 ここで杏樹さんのおっしゃるインド・ヨーロッパ語が論理的であるということが重なってくるのですが、言語というのは人間間でやりとりされるものですから、人間関係の違いは言語に決定的に影響するわけで、日本人同士の人間関係と西欧における人間関係は決定的に違うのである以上、日本人が英語の発想(主語を必然として、その主語が動詞を要求する)自体を身につけることは多大な困難をともなう、それが日本人が英語が苦手な根本的な理由なのではないかと思っています。
 「以心伝心」の国の人間が、言語で孤独に主張することでしか他人とかかわっていけない世界を本当に自分のものにすることができるのだろうか、と思います。

 ここでの多読も、とにかくたくさんの英語と接することで、そういう英語的な文化的背景になじんでいくことが大きな目的となっているのだろうと思うのですが・・。


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